近代自由主義に関してのメモ

 自由主義は経済としては私有財産と市場による資本主義を基礎としているね。でも西洋の歴史を見ると私有財産はそれほど肯定的には扱われていない、プラトン私的財産捨てろ!とか言ったりするし、それを批判したアリストテレスも狩猟や牧畜・農耕による財産の獲得と貨幣を用いた交換を認めるが、貨幣の獲得が自己目的化することを憂慮し道徳的節約が必要だと指摘している。
 それは中世キリスト教世界でも同様で、アウグスティヌス私有財産は罪!だけど、罪深き我らに平和と秩序をもたらすためにはやむ終えなく必要だとかいってた。
 そういった精神が宗教改革によって変わったと指摘したのは有名なウェーバーさん、カルバンの二重予定説、即ち救われる人間とそうでない人間は最初から決定されているが、救われるかどうかは人間には分からない、そんな不安定なままだと人は内面的孤立化状態に陥る、そんな際の救いとして労働!職業と労働活動に救済の場が求められていった。勤勉禁欲にし富が蓄積されるなら神の召命に忠実であったことであり救いの確証を与えられるのだ!すげえ!おれ救われるよ!労働(∩´∀`)∩バンザ──イ!
 しかしその労働も救済されることを目的とした倫理のための営利が、営利のための営利となり資本主義は暴走していった。

 私有財産と富の蓄積は我らがロック!などによって正当化されていく。ホッブスにおける所有権は契約によって為政者の決定に大きく依存させられていた。しかしロックは自然状態*1に労働を基礎とする所有権の成立を―身体とその能力はその者のものであり、その労働の所産による財産は個人に帰属すると―見出した。

 貨幣の導入は無限の貯蔵を可能にし、さらには賃労働を可能にすることによって自分自身以上の耕作を可能にし新たな生産を生み出し社会全体の富の増大をもたらすとする。ただロックに不均衡・不平等といった観点が見受けられず素朴なところがある。
 分配に関する正義の議論はアリストテレスも言及している。かれらは物自体に価値は内在されているとし、その分配もその物と者の価値に応じて分配されるという。価値の分配は階層に則り権威的に決定され、階層的秩序を正当化していくことになる。このアリストテレスの考えは中世のトマス・アクイナスにも採用された。しかし近代はこういった階層の解体にその特徴がある。後に詳しく述べるがホッブスはこのような階層的秩序に基づく分配の正義を否定した。彼は自然状態において人は平等で自由であり、比例的平等という配分的正義は不当としたのだ。物の価値は主観的に決定され個人がある物をいかなる比率で交換してもそれは自由であり非難されるべきではないとした。ここにおいて唯一の正義は「契約の厳守」であり事物の配分は市場に委ねられていった。

 アダム・スミスは分業こそ生産力改善の最大の要因であり、個人が自己の利益のため行動することによって、結果的に社会全体の富は増大すると考えた。さらにそれは市場の自動調整機能を通じて、市場にもたらされる商品の量は自然的に有効需要に一致する傾向にあり、市場価格は自然価格*2に近づくことによって、分配の公平をも生み出す。市場のメカニズムが各人の貢献を正しく評価し人々の満足の極大化にも貢献するとしている。この考えは交換の正義が満たされるならば結果的に配分の正義も自然的に満たされるというものであり近代思想の特徴である。
そして市場の自由の要求は、政治的秩序と経済的秩序の分離が促され政府は外部から契約を保証するだけになる。政府は分業勤労システムや社会的価値の配分に介入することを禁じられ、すべては自由なる分業と交換のシステムに委ねられる。これをアダム・スミス「自然的自由の体系」とよんだ。そして経済の論理が社会の論理を覆うことにつながる。ただこの思想はユートピア的とされ、そして封建的階層秩序による不平等とは別の不平等を発生させることになった―というよりも不平等は消えることはなかったと言うべきだろうか。

 自由主義と民主主義の繋がりはどこから発生してきたのか。先にも述べたが近代は共同体的階層秩序の解体を前提とする。魂などによって―自然の全体に渡って階層的秩序は存在しており、すべてのものの価値は神が配分したようにあり、支配者と被支配者は予め決まっていた。その考えを否定し自由で平等な原子論的個人の自然状態を説いたのがホッブスであった。
 ホッブスは自然状態とは前政治的で、いかなる道徳的拘束も権威も存在しない状態であり人々は完全に自由で平等であるとした。その状態において人は己の判断に従って生命の保全のためいかなることをも為しうることを自然権であるとした。しかしその状態は万人に対する万人の闘争状態である。そこで人は死の恐怖という情念に促され理性を用い、自然状態から逃れるため平和の戒律としての自然法を発見する。その自然法は、平和への努力、平和と相互の防衛のために自然権の相互放棄を命じ、他者に許すと同じだけの自由で満足すべきことを命じ、この自然減の相互放棄のため結んだ契約の遵守を命じる。
 ただ自然法だけでは己の利益のため自然権の行使におよぶ者もいるので、刑罰を与え人々に自然法を遵守
させるための、自然状態からの相互契約を通じて設立される国家を要請した。ただホッブスは政治権力設立を相互契約に基づかせながらも、人民の側から主権への一方的な授権とみなし、絶対主権を説いた。
 ホッブスは法や国家を自由と対立させ、「自由とは、外的障害の欠如である」として、自然法を「汝の欲すべからざるところを、他人になすことなかれ」と定義し消極的自由を説いた。彼にすれば自由とは法の沈黙しているところに存在していることとなる。そしてここに至って、私的領域と公的領域の分離を見出す。
 
 ロックはホッブスに影響を受けながら前述したように王権神授説を批判した。彼の自然状態には自然法―個人の健康、自由、財産を損傷してはならない―が存在しているが、やはり不安定な状態であり、政治社会への移行を余儀なくされる。それは人間の自然本性からの堕落に近かった、かれは自然状態とは自由で平等で平和な状態と捉えていた。彼は民主制を必ずしも是としてなかったが、同意による政府、立法府の至高性、法の支配革命権などを説いていた。
 一方ルソーは英国野郎は選挙の時しか自由じゃないじゃないか、やっぱり一般意志によって畝井される直接民主制だよねと説いた。彼は国家と社会を区別することなく、また国家において自然的欲望は解消され道徳的自由を獲得するとした。ルソーにおいて私的領域と公的領域の区別は存在しなかった。
 だがロックは国家と社会を区別した。彼は自然状態において所有権と貨幣に基づく交換社会を認めており、それは自律性を持っていた。そして政治社会としての国家は、市場社会を外的に保証し安定させるものとして設立されたのである。国家は、生命、自由、健康、苦痛からの解放や所有といった市民の利益を保証するものであって、魂の救済たる信仰の自由をも保証し、国家と信仰を区別した。これにより信仰は私的領域のものとなり公私がより一層区別されるようになる。

 
 ベンサム自然権自然法の観念を斥け、あるのは実定法だけであり権利とは実定法に保証されているもの以外にはないとした。彼によれば自由選挙が行われるならば、議会は経済における市場のように機能し、最大の効用を実現すると考えた。彼は、個人の利益が全体の利益と一致しない原因は、個人が真の利益を発見していないからだとみなした。このように議会制民主主義を擁護するベンサムであっても、自然的自由の体系は成立していた。
 
こうしたベンサムにおける功利主義の正当化はどのような過程と背景があるのか。
 プラトンアリストテレスにおいては魂に内的秩序があり、人間の生における価値ヒエラルキーが存在しておりトマスアクイナスもこの思想を採用していた。この価値は近代において転換する。プラトンなぞにおいて価値のあった魂の理性の部分は中心でなくなり、欲求的部分・享楽的生活が中心となり肯定される。
 ホッブスはそれを徹底化した。彼は欲求は前であり嫌悪は悪であるとし、欲求を満たし嫌悪を回避しつつ自己保存していくのが人間であるとした。ここで人間と動物の区別はほとんどなくなる。彼からすれば勇気は戦争を起こす軍人的なものと見下され、理性は欲求を実現するための手段となった。
 こうしたプラトンアリストテレス的伝統の否定による価値ヒエラルキーの転倒は、価値のヒエラルキーによる生のヒエラルキーの肯定によって身分制社会の階層構造に対応し正当化するものを解体していった。勇気や節制、知の支配は支配階級に都合のよいものとなった、しかもそこでは階層支配が自然による区別を通じ正当化されていった。これにたいし欲求の解放は身分制秩序を崩壊し自然を自由で平等な状態とした。
 人間は魂の卓越性によってではなく、欲求と嫌悪によって捉えられる限り自然的な優劣の差は発生しない。ただこの欲求の力の解放が、現代に続く問題を発生させていくことになるのも事実である。

 人間は快楽を追求し苦痛を回避し自己保存を図るものだとして、ここにおいて自由とは何を意味してくるのだろう。それはなんども述べているとおり外的障害の欠如状態ということになるだろう。ロックは「自由とは、われわれが選択し意志するところに従って、われわれが行為したり行為しなかったりすることができることに存する」という。*3余談だが、ロックはホッブス的な人間像を採用するが、欲求の実現の際に理性の判断能力を働かせる自然法的制約が働いていることを説く。彼は自然状態にある種の調和を見出していた。アダム・スミスもロックもアプリオリな道徳規範は認めないながらも、同感・共感という自然的能力*4を通じて道徳的規則が成立し、人間を拘束することを認める。
 こういった道徳観や自然法を批判したのが先程も登場したベンサムだった。彼において快楽と苦痛のみが自然的事実として肯定され、それが唯一の価値基準となっていく。ベンサムは功利性の対極に禁欲主義があり、名誉名声は道徳家宗教家にそそのかされた結果であり、同感の原理は人々の是認否認をそのまま道徳原理とするものであり、人々の趣味などに左右されたように変化し過ちを犯しやすいとした。彼は快楽と苦痛が善悪を判断する道徳的基準でもあるとし、さらには立法の原則であり、政府の政策を判断する基準でもあるとした。立法の目的は快楽の増大と苦痛の減少以外になく、立法の善し悪しはこれによって判断される。*5アダム・スミスと同じようにベンサムにとっても社会にはある種の自然調和が成り立ち、そのため国家は必要悪であった。そしてこの功利性の原理は国民の幸福を積極的に増進するための福祉政策を正当化することに用いられるようになる。

 こうした功利性の台頭と魂の卓越性の失楽、そして絶対的実体の神の権威の低下に伴い、正義ももはや絶対的なものではなくなった。キリスト教による絶対的な価値基盤が崩壊したことによって、正義は主観的なものとなり、だからこそ共通善を形成するために議会や民主主義の必要性が増大していったと考えられるだろう。自由主義と民主主義の結びつきは中世の封建的な秩序を維持していた階層価値ヒエラルキーの否定による、アプリオリな善悪の喪失に伴い不安定ながらも手を結んでいくことになったのであろう。

 

*1:為政者によって法も制定されていないアナーキー状態、だがホッブスと異なり理性の法である自然法を認める

*2:土地代、賃金、資本の利潤を支払い得る価格

*3:ロックはキリスト教神学に影響を受けていたが人間の生における価値のヒエラルキーは認めていない

*4:神の与えた能力

*5:これでいわゆる最大多数の最大幸福が導き出される。

自然概念についてメモ2

バトラーさんの道徳哲学では「徳は自然に従うことであり、悪徳は自然からかいりしていることである」とする。ここで語られる自然とはどのようなものだろうか。*1彼は自然には、人間を構成する諸要素という意味がある-これは世界のいかなるものも自然の一部であるとい意味と同じである。ただこう考えると、人間の行為全ては人間の自然の一部となるので、すべての行為が徳となる不都合が発生する。そうではなく人間の本性は、神が設計によりφすることに役立つように人間を創ったという事実によって説明されなければならい。つまりφすることに適合している場合またはその場合のみ人間は自然にしてがっており、そうでない場合は不自然であり悪徳な行為となるのである。
 
人間の自然・人間の本性も物理的自然・宇宙も神に設計=意図designによって目的的に構成されている。このような思想は多くの思想家の根底にあったことが伺える。上に寄って道徳感覚は賦与され、その客観性は神によって保証されている。

 さてみんな大好きアダム・スミスはどう自然を考えたのだろうか。彼の倫理学、邦楽、経済学の土台にはキリスト教神学があったように、自然概念においても色濃く現れている。たとえば「自然が人間を社会に適するように造るのに際し、自然は人間に自分の仲間のものを喜ばせたいという原本的な欲望とともに、自分の仲間のものを怒らせることを嫌う反感を賦与した」と語っている。しかしこの自然は目にすることかなわず、「見えざる手」と表現される。*2彼は近代自由主義経済体制を「自然的自由の体系」a system of natural libertyと読んだが、この自然的という語には目的論的要素の見えざる手が付与されていたのである。国富論においてアダム・スミスは、個人の欲求や利己心も神の見えざる手に導かれ、社会利益・公共の福祉をもたらすのであるとしている。近代初期の道徳哲学や社会科学においては、この個人的欲求や利己心がなぜ社会利益公共の福祉をもたらすかが最大の問題であったのだ。アダム・スミスはその回答として神の見えざる手という目的論的な要素を導入したのであった*3。見えざる手は神のメタファーだが、それは神が常に事物の進行に介入しているという意味ではなく、神は設計者であり、時計とおなじように適切な場所に歯車がおかれれば、あらかじめ設計され決められたとおりに動く。神は初まりにおいてそのように宇宙を設計していたんだって意味での「見えざる手」であり、経済も人間社会も背後には設計者としての神の見えざる手が働いているとしている。*4かれの神学的前提は「神によってはじめて命じられた事物の自然的秩序あるいは配列があり、人間の義務と幸福に恵まれる機会とが、この自然的秩序とはなんであるか、ということを人間が発見し、したがって自然的秩序と協働することにかかっている」というものである。そのうえで彼は「個人は、自分の自由にできる資本があれば有効に使おうと努力するものである。それは自分の利益であり社会の利益ではない。けれども、かれ自身の利益を追求していくと、かれは自ずからnaturally、というよりむしろ必然的にその社会にとって有利な資本の使い方を選ぶ結果になる」としている。ここでは自然が必然的に近い意味でつかわれ、それは神学的な道徳哲学を前提としているからである。


 まじ「自然」って概念曖昧すぎww思想史上重要なのに、ヒュームやミルもそんなことをこぼした一人だった。ミルによるまとめによると自然には少なくとも二つの重要な意味があり、その一つは「外的世界あるいは内的世界の何れかに存するすべての力、そしてこれらの力によって生じるものすべて」を意味し、もうひとつは作為と対立する「発生するものすべてではなく、人間の作用がなくて、つまり人間の自発的意図的作用がなくておこるもののみ」を意味する。
 自然という語は規範化し、本質という意味を獲得することによって自然概念の絶対化、そのため絶対的なイデアや神や理性と意味が重なり同一なものとなり、さらには自然がその絶対的実体として作為の主体にもなってしまったところに混乱の原因のひとつがあるのかもしれない。自然が絶対的実体と結びつくと神や理性と同一のものになってしまう。
 ギリシア時代あたりにおいて自然の意味は、存在・材質、成長・生成、存在全体の3つだった。それから自然は規範化し本性とか本質という意味を獲得していく。そうなると次第に作為nomosと対立していく。ここから自然法と実定法の対立軸なども生じていった。さらにこの本質が絶対化されると、実体―イデアや第一形相などと結びつくようになった。キリスト教神学においては神が自然を支配下に起かれ、その完成は内に求められず超自然的な補強を必要としていた。ルネサンスになると汎神論が登場、自然と神を同一視した云々。近代合理主義のデカルトになると被造物=自然の中に見出される真理=自然法則は永遠不動万古不易
であり、その根拠として神を自然法則を定めた神の意志の普遍を求めた。
 デカルトなどの合理主義はかなり暴力的に表せば神=自然=理性である。それをイギリス経験論は批判していく。神の存在証明において目的炉的(設計論的)証明を用いていた合理主義に対し、経験主義は特にヒュームは神を宗教を理性を用いて理解することを拒否したのである――すべての知識は経験によるとしたロックは、神の観念も生得観念ではなく経験によるとしたが、神は万物の創造主、宇宙の設計者であることにかわりはなかった。
 ヒュームは人性論の中で、自然を奇蹟・稀有な・作為的・市民的・道徳的に対立する言葉としている。なず奇蹟は自然の法則の侵害だと見なされている。奇蹟はあったとしても見えざる作用者の介入であり、奇蹟を例外として、この世に起こる出来事全ては自然的なものとみなす。
 作為と自然の対立はストア派エピクロス派の対立をもちいて語られる。ストア派は人の作為、すなわち理性や作為的規則によって人間の幸福は達成できるとするが、エピクロス派は自身の―自然の命令である―情念と嗜好によって幸福は達成できるとする。絶対化された自然によって情念と嗜好は権威付けられ、真理であるかのようになる。
 一方ストアは人間と動物を比較し、自然としての本能と作為としての知能や理性を神は授けたとする。そして人は自然にある物質を職人として加工し生活をする必要があり、そのためには勤勉でなければならないが、勤勉によって目的とする最大幸福に達成すると説く。彼らは永続的幸福を求め勤勉によって得られた徳こそが幸福を保証すると考えた。いっぽう自然にたいしては、彼らは自然に従って生活することが最大の徳とも考えた―自然は徳に対して莫大な持参金を与えてきた、しかも専ら徳への愛に浸っている人々にのみ魅力を持ち得ていた、つまり栄光こそが徳の持参金である。プラトン派になると自然を超越なものとし絶対化することによって、感覚的快楽を求めるエピクロス派と大衆の喝采を求めるストア派を克服しようとする。
 この3つを批判する懐疑派は、こいつらは幸福の価値を対象に求めてるけど、心の構成と組織に求めなきゃいけない、そしてこの構成や組織は我々の選択には依存していない(理性だって限界あるだろ?)。かれらは幸福であるか否かは、追求する情念により、新に持続的な情念は人間の自然に基づいている場合のみ生じるとする。*5ただ、ヒュームはストア派に対してはそれほど強い批判はむけておらず、懐疑主義の篩いにかけられたストア派の思想を抱いていたみたいである。それはキケロの影響が強いんだろう
 キケロは極端な懐疑主義を否定し、「自然に即して生きることは最高の善であり、つまり自然に順応し、いわば自然のおきてに従って生きることである」とし、人は自然と調和しろ!と述べている。そして自然は習慣であると展開する、たとえば徳のありかたを「自然本性の在り方と理性に合致するところの精神の習慣」とし習慣を「精神あるいは身体の、ある完全で恒久的な完成態に存する」とストア派の強い影響が伺える。そして面白いのが、キケロは習慣としての自然を社会に対しても用いた―習慣は広い意味で作為に属するものであり、自然とは対立するものだ。まーそれが長い時間の中で自然化したってことですね、ただ固定的なものでなく社会変化に応じて変わり得るとし、自然概念を絶対化することはなかった。
 ヒュームにおいて習慣は設計されたものではなくundesigned繰り返される行為のことをさす。ただ習慣は究極的原因を与えるものでなく、変化し作為が関与している。習慣は自然の諸原理の一つに過ぎなく、習慣が発生する源泉は自然としているーー結局広すぎる!!!ただ習慣は意図的なものでもなく、理性は本能の一部とされる。・・・もうおしまいい!

*1:バトラーは目的論的神学と道徳哲学を適合性という概念を用いて結びつけた。これは、ある事柄Xがもつ特徴Cがφすることに適合的であるというのは、Cがφすることに役立つ、Cという特徴を持つXはCがφすることに役立つという事実によって説明される、そのような場合またはそのような場合のみであるという命題のことである

*2:自然と中世神学とかまなんで、新自由主義の発想がキリスト教的な「摂理」と深い関係にあることや、目的論的要素が働いていることが理解できる。つまり自然状態≒自由な場合であっても神は、幸福と完成を意図し世界を設計しており、そのようになるのであって余計な作為artは不要なのであるとされるのだろう、たぶん

*3:人の利己心などからどうして公共の福祉とかが発生するのかと考え、神の見えざる手によって、利己心による経済という手段が公共の幸福という真なる目的をもたらしたとしたのかなぁ?

*4:つまり決定論的であるのか…しかし、適切な場所に配置されるのは―配置されていると見なしているのが強いかな

*5:自然主義

必然と自由のメモ

 西洋思想史における人間の自由意志に高い関心が払われるようになったのは中世のキリスト教神学であるといわれている。もちろんギリシアのころにも、たとえばエピクロスおよびエピクロス学派デモクリトスの万物は原子からなりそれらの速度や形はあらかじめ与えられており人間の行為や状態もそのように決まっているという決定論を批判し動物や人間には自発性などが見られるとした。 
 自由意志についての関心は、意志の自由と予定説との論争が神学者の間で展開されていたからである。かのアウグスティヌスとペラギウスの論争の中心も自由意志問題が中心であった。
 すべてを神に委ねるアウグスティヌスの態度は人間の道徳心を堕落させる―人には自由意志があり善行悪行もできるのであり、個人の自由意志を尊重すべきとした。一方アウグスティヌスは人の善行は本人の意志ではなく、神の恩寵によってはじめて導かれる!しっかーもこの恩寵は平等に分配されてはいない!恩寵を有するものは救済されるが、ないもの地獄行きが生まれた時より定められてる!とした予定説ぱないっすね。その後予定説派もトマス・アクィナス神はすべてを予定してるけどさー個人の行為の自由を奪うことはしないよ、だって人間は理性と意志を持っていて他の被造物と異なる人間すごいもん、となっていった。理性があるから意志の自由があり、理性は判断する能力であり判断するためには予め決定はされていないということである。よって行為を選択する意志の自由はあるのである。
 その後になるとルターとエラスムの論争によってまたホットになる。エラスムは自由意志は人間の生まれ持った能力であり、恩寵へと己を適応させたり離反させたりすることができる*1。ルターこれに激怒!こんなのは人間中心主義だ、人の意思は必ずしも自由ではなく寧ろ不自由な奴隷的である。人初見のうちにあり善に対しては無力である、即ち人間は神の予知のまま行為しているのであり、自らの意志によって行為してはいないのである。カルヴァンはさらにこのルターの予定説を徹底させ神中心主義を唱えた割愛
 近代合理主義も自然の諸現象に必然主義的関係・合理主義因果論を見出し決定論者であったが、同時に人間の自由の場を見出そうともしていた。デカルトはなぜ人は髪がいるのに悪をするかという問に対し、人間の自由は意志や判断にありそこに悪や誤りが発生するという。そのため神の恩寵や自然科学の知識は自由を減少させるのではなく、誤りをなくし自由を拡大強化する。従って内的自発性の程度に比例し自由は拡大する、つまり無差別の自由ではない。u-nnちゃんとりかいできてないです
 ライプニッツも自由は自発論―つまり自己決定と結びつけている。彼は、世界には無数の可能的世界があり、実体にもまた無数の可能的実体がある。神は完全で最善の世界を作る実体を選び存在させたといい、絶対的必然に至る以前の仮定的必然性においては偶然性も存在しその可能性を自由と同一視した。
 スピノザは奴隷と自由について、奴隷とは主人の命令―それが彼の利益となるとならないとにかかわらず―に服せざるを得ぬ者のことである。いっぽう主権者の命令に服すものの、そうすることが自分を含む人々の利益になるという合理的判断に従って服するのが自由な臣民であるとし、理性の完全な指導の下に自由な合意によって生きている人間を自由とした。

 私の大好きホッブスさんは自由に関して、自発的行為とは人間の思慮による行為のことである。思慮とはある行為の善い悪い結果についての代換的想像imagination、あるいはその行為を為すなさざることに対する代替的欲求である。思慮、即ち対立する欲求の代替的継起の中で最後のものを意志willという。自発的行為は選択に基づいた行為であり、選択に基づく行為は自由な行為である。自由とは、行為者の本性と固有の性質に含まれない行為に対するすべての障害が欠けている状態である。自発的な行為も必然的原因を有しており必然的に生み出される。十分な原因がるということは、結果を生み出すに必要なものがかけていないことであり必然的原因である。自由な行為者に関する通常の定義、即ちその結果を生み出すに必要なすべてが存在している時、それにもかかわらずそれを生み出し得ない行為のことであるという定義は矛盾している。故に必然と自由は対立せず両立する。
 ついでにロックは意志という何かを変化させ得る能動的力能を合理的行為者たる人間は有しており、自由はこの人間が自己の意志に従って為したり為さなかったりすることである。しかし同時に人は、そこから外れた行為もできる、つまり自発性の自由だけではなく無差別の自由をも持っているのである。そして必然はこの自由がない状態をさす。

ヒュームは自由に関して、自発的自由(暴力に対立する自由)と無差別の自由(必然性・原因を否定する意味での自由)を区別し得るものはほとんどいない。ただ、無差別の自由とはほとんど偶然と同意義でありまた道徳を破壊すると否定し、自発性の自由と強制からの自由を説いた。彼は人の道徳的責任にとって自発的自由を確保しておくことは重要であると考えた―そしてこの自発的自由、意志行為における自由はホッブスのそれとそっくりであった。ただ多少異なり注目すべきところは、自由が道徳的責任にとって不可欠であるとしている点だろう。


じかいにたぶん道徳と自由みたいなかんじになるのかな

*1:この場合恩寵の導きは特に考慮にいれない

自然について雑記メモ

 シュトラウスは古代において自然権は徳や人格的完成と密接な関係があったが、近代においては事実判断と価値判断が切断され、大衆社会から全体主義へ道を開くこととなったとする。古代において自然は普遍的なものとして捉えられていたため自然権は可能であった。
 自然の語源のピュシスであり生成、成長が本来の意味であったといわれ、それが変わり本質・本性という意味になった。それによりピュシスはノモス即ち習慣、法、政治制度、なとと対立する概念となっていく。(ギリシャ時代の自然観は目的論的・有機体論的であった。)
 キリスト教が支配する中世において自然は恩寵gratiaにたいするnaturraであった。アウグスティヌスは人間の本性・自然には、失楽園以前の健全な自然、罪による損傷された自然、キリストの恩寵によって更新された自然の3つの段階があるとした。神の恩寵は自然をこえた超自然的なものなのである。トマス・アクィナスは「恩寵は自然を廃すのでなく完成するもの」としている。
 近代合理主義、デカルトは我思う故に我ありを発見し、精神と物体が分断され自然は物質側に属することとなり、幾何学・数量的世界の対象となった。これはコペルニクスガリレオの捉えた自然観と酷似している。ただデカルトにおいても自然の法則や真理は神の意志による創造物という域をでなかったとみなせるのだが、神の目的は人間の理性を超えており、そこから物質としての人工物と自然物の区別は無くなった。
 こうした機会論的自然観をホッブス唯物論的方向で徹底した。ホッブスの自然観は物体一元論であり精神も人間も社会も物質とされた。自然は因果的・数量的に理解できるものとし、目的因や形相因を排除し作用因のみを因果関係における原因とみなした。(ホッブスキリスト教神学を厳しく批判している)
 スピノザはその思索を神から出発するが、彼が語る神は超越的なものではなく、内在神であり自然と同じものであった。彼の言う実体は他の原因から独立した自己原因であり、無限である。同じ本性をもつ実体は二つ存在することは出来ず、従って必然的に無限であるので絶対無限の存在者たる神と同じなのである。「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない」という定理を導き、「神即自然」とした―汎神論と呼ばれる所以だろう。
 スピノザの自然を理解するためには「所産的自然」と「能産的自然」を理解する必要がある。中世神学者は合目的的に万物を創造する普遍的原因としての神を能産的自然、上によって創造された世界を所産的自然と読んでいた。だがスピノザはそう考えず、能産的自然をそれ自信の本性から活動する自己原因として、所産的自然を神の一切の様相と考えた。つまり神即自然における自然も所産的自然でなく、能産的自然なのである。話を端折るが、スピノザにおいて神と自然は同義であり神の必然性と自然の必然性とも同義となる。自然の必然性は幾何学的・数理的必然性であり、自然が必然的関係から成立しているがゆえに、自然から全ての目的・価値が取り除かれる。
 僕らのライプニッツ!は、数こそ究極的実在であると考えた。算術が1と0からなるように宇宙も根源的存在者としての1である神と、0である無からなっている。1たる神が最高のモナドで、その産物が無数の独立した個体としてのモナドであり、それを実体とした。このモナドには神、人間の精神としてのモナド有機生命体としてのモナド、裸のモナドといわれる無機物的物質世界を形成するモナド、という4つの段階がある。この4段階は表象の度合いの差に過ぎずそれぞれ独立しながらも連続している。連続しているので一方の変化は他の変化に応じる―精神と物質では精神のが明確であるから精神の変化が物質の変化の原因とし物質の変化の説明を与えることができる。この実体間の総合はなぜおこなわれるか、ライプニッツによればあらゆる実体の間には予定調和があるからだとする。実体間の総合が予定調和によって起こるということは、目的因と作用因とが調和することを意味する。ライプニッツは自然現象は作用因からだけでなく目的因からも照明できると考えたのだ。ライプニッツの自然は一つの大きな有機体といっていい。

 イギリスのボイルはキリスト教の宇宙・自然観と自然科学上の機会論とは結んすることなく共存しえた。両者の自然の根拠は内部にではなく外部、キリスト教の自然の存在根拠が設計者たる神にあるように、機械の存在根拠も製作者にある。ニュートンもまた自然の究極の秘密を曖昧なまま残していた―重力の原因を明らかにせず、重力を物質固有の力能であるとする考えを否定した。自然の存在根拠は神に由来し、自然の確実性は神によって保証されているという神学を信じていたといえるだろう。
 こうした考えは次第に衰退し、自然科学の分野ではキリスト教から切り離された機械論が支配的になっていった。それは神の存在を前提とせずとも自然科学上の法則は発見でき、その確実性が保証されるようになっていったからともいえる。このように近代の自然科学はキリスト教を離れ独自の道を拓いていき、自然科学に対する楽観主義も広がっていくこととなる。
 ロックもまた神学の影響が色濃く残る。*1そのロックにおいて神学とその社会科学の認識論や諸理論とを結びつけるものが自然法natural lawであった。自然法の特徴は古代ギリシャソフィスト以後から中世においても長い間「理性の法」であった。ただ中世では自然法は神と人間が共有する能力のこととされ、自然法は神法の一部であるとされた。そしてロックは自然法は自然の光によって認識可能であるとし、自然の光とは人間が自然によって賦与された諸能力を正しく用いるならば、一人で真理に到達可能にするものを意味する。自然法を認識する方法は刻印、伝承・伝統、感覚の三つがあり。刻印とは生得的知識であり、自然法の認識方法としては否定されている。もし生得的に自然法が存在するならば、それは普遍的に認められるべきであろうが、そうではない。これは精神が感覚によって印象を受け入れる前は白紙であることを示している。伝承は部分的には当てはまるが原初的源泉ではない。そうではなく理性(と感性)という自然の光によって自然法は認識できるとする。
 ロックは自然法もまた法であり、人々が正当に服従すべき立法者が存在していること、立法者が人々に示す意志が存在しており人々はその意思に従って生活せねばならないという、二つのことが前提されているとする。そして理性と感性が相互に助けあうことによって、人々に知らしめることが出来るのである。感性は自然界に知覚しえる対象が存在していることを明らかにしてくれる。そしてこの自然世界は驚くべき規則性をもって構成されており人間もその一部である。そして理性は感性が知覚した世界を考察し、創造主である神を見出す。すべての人間は理性と感性を行使し得るので自然によって自ら神を発見することができるのである。神を信仰することは人間の義務の一部だが、また人間はその自然的能力である理性と感覚を使って神の作品に考慮を払い、社会において他の人々と生活をともにすることも、自らの義務としなければならない。つまり人間は、神と自分自身と隣人に対して義務を持っているのである。ロックにおいて神学と社会科学との結合が自然法の認識方法の議論を通してなされている。

バークリーにおいて神と自然と人間の関係を端的にあらわしているのは「自然の著者の言語」Language of the Author of Natureという語句であるとされる。バークリーの神の存在の設計論的証明も、その理解のためにあった。そして設計論的証明を視覚的言語と「存在するとは知覚されることである」という認識原理の2つの方向から行われている。彼の視覚論では視覚観念と触覚観念の習慣的結合によって機能する視覚を「自然の造り主の言語」としている。バークリーは「神は、私達自身から別個なあらゆる心ないし精神と同時に、絶対確実かつ直接にしられる。いや、神の存在は人々の存在よりはるかに明白に知覚されると主張してさえよい。なぜなら、自然の結果は人間という能作者にきせられる結果より無限に数多く著大であるからである」。「まことに造物主こそ、その力ある言葉を持って万物を保ちながら、もろもろの精神の間の交わりを維持したもう唯一の御方であり、これによってもろもろの精神は相互の存在を近くできるのである」。
 これを踏まえると、バークリーが知覚し得る結果から知覚し得ぬ原因へと進む因果原理が受容されているとわかるだろう・・・わかってくれ私もよくわかってない。まーあれ、可感覚的事物より構成されている自然界には合理的な秩序・一貫した運動法則・動物と植物や天体と諸元素の間には関係があると見られる。以上のことが観察可能なのは、同じ目的や設計にむかって協力しているからである。そしてそれを可能としてるのは「人間の霊魂のもつものとは比較にならぬ大きな力や智慧」が存在しているからだと推論できるとする。以下略、バークリーは感覚から出発し重視していた点で中世神学と異なるし、経験主義的だね。

 自然にいちおう注目しているので、道徳感覚学派の始祖シャフツベリの自然道徳あるいは倫理的自然主義について触れよう。シャフツペリの自然観は後述するだろうボイルのと反対で自然の神格化がおこなわれている。彼は自然の神格化により神学から超自然的なことを排除し、道徳の土台は事物の自然the nature of thingsあるいは人間の本性human natureに置かれるのが望ましいと考えた。ボイルにおいては自然は神の代理者ではなかった、しかしシャフツベリにおいては神は自然と同じ物であり無上に公正なこの上なく善なる、作為artによってもとらされた何よりも高貴な作品をもたらすと摂理の代理者であった。シャフツベリは信仰の土台を自然つまり事物の秩序に置く。従って奇蹟は自然、秩序に対する違反として斥けられる。
 そんなわけで唯一絶対の神であるキリスト教では余り問題とならなかった、調和とか統一性とか統合とか正当性とか体系とか秩序とかが切実で重大な難問となってしまったのであるシャフツベリにおいては!!これは人文科学において重大なことだよーー。
 彼は多神教を認めていたらしい、彼によれば設計原理によって「すべてのものが支配され秩序づけられている」ことを信じるものが有心論者であり、設計原理を信じず「自然においては、全体の利益も特定のものの利益も少しも設計されていないと考えるものが無神論者である」とする。シャフツベリは神の存在ついて設計論的証明を支持した。

*1:彼は統治二論でフィルマーの王権神授説を批判したのは有名だ。王権神授説は、神はアダムに世界及び世界を支配する権力を与えた。それは父親が生命と生存を子に与えているので父は子に対し権力を持っているのと似ているとし正当化していた。ロックは父が子に生命を与えているのではなく神であるとし批判した

『白い城』私的感想―われと同じである他を愛し、私を愛せ―

 2006年度ノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの一冊であり、キリスト教徒のわたしとイスラム教徒の師の交流を通し東洋と西洋との対話を描いている様に見せ、己の人生を愛すること、他者を愛すること、その道程が描かれた作品である*1以下私的感想

白い城

白い城

 
 私は、この物語がいわゆる知的エリートの物語―その苦悩や傲慢、苛立ち、シニカル、挫折、喜びなどを描いた作品―なのではないかと期待し読み進めた。
 しかし何よりもこの物語を手にとった理由は帯にも書いてある「人は、自ら選び取った人生を、それがわがものとなるまで愛さねばならない」という一節が私の心を射止めたからだった。そして読み終えて私のこの感性は間違ってはいなかったと、それ以上のものだったと確信している。

 話を読み進めていくとこの作品がエリートの物語、しかし価値観の異なる世界で育ったエリートによる対話の物語であることがわかる。もっと正確に言えば他者との対話なのだ、洋の東西もそうだが知的エリートと民衆や権力者とが対話する、そこでエリートが希望を持ち挫折し憤慨し自棄になり、また一喜一憂する、それが本書の魅力であり物語の一角である。そしてわたしはその師と師以外の対話を眺め、師として対話し、師を通しても対話する。
 そう、この物語は対話篇であった。異民族との、民衆との、権力者との、己との知的エリートによる対話篇であり、その際の苦悩や挫折などを描いた作品なのだ。
 しかし対話を重ねるにつれ、他者にふれていくにつれて、わたしや師のアイデンティティは揺さぶられ己が壊され不安定になっていく。

人は、自ら選び取った人生を、それがわがものとなるまで愛さねばならない(90)

 という一節がここでまた輝いてくる。つまり自分で自らの人生に意味を見出すことの大切さ、愛することの大切さが描かれ始める、そして皇帝という他者に己の人生の意味を託すことの脆さ儚さ空虚さが対極として配置されているのでは、とも思えてくる。いや、こういった二元論を超えていこうと、自己との対話と他者との対話が頻繁に入れ替わっているのかもしれない。それは対ではなく、洋の東西のせめぎ合いでもなく、単にエリート二人の葛藤と不理解でもない。師はわたしとなろうとし、わたしは師とわたしがあまりに似ていることに慄く。そして師はわたしと師が同じであることを何か憎み、そして愛していた!
 この物語を読み進め、対話篇だと思い込んできた私のなかで対話という言葉がなにか陳腐なものになってきた―わたしと師の関係は物語が進むに連れ曖昧に不安定になり遂には入れ替わってしまった。私が当初想定していたようなエリートによる対話篇、それは本題ではなかったのかもしれない。
 では、この作品の中心はなんであろうかそれは以下の文章に端的に表されているのではないか
 

イスラム教との村民も、キリスト教徒の隣人たちと似たり寄ったりの告白しかしなかった197
イスラム教徒もキリスト教徒も同じようなことしかいわない198

「人間というものが、どこであれ同じ存在にすぎないことの最良の証左は、彼らが互いの地位を交換しあうことではなかろうか?」220

 
 これらは差異を否定する発言だ。「わたしはなにものなのか」というアイデンティティをぶち壊す発言だ。対話を繰り返すエリートの挫折、希望と期待をもったエリートの挫折、それを通して描かれているのは、陳腐化していく対話、他者との差異という陳腐さ、その様が描かれているのかもしれない(いや逆なのだろうか)。物語の折々で出てくる「われわれ」と「かれら」、その両者の違いを見出そうと師は執心する、しかしそれは終ぞ果たされなかった。落胆するために必要な喜びも期待も潰え、「われわれと彼ら」は融け合ってしまう。そのことは「わたし」と師が入れ替わり誰もそれに気づかないことによって表されている。*2

 この物語には洋の東西の対話に見せかけたトラップが敷かれていた。この物語では他者と対話することに対する疑問が投げかけられている。物語中盤の「わたしはなにものなのか」という問いは哲学的・社会的な問題としてアイデンティティの危機を扱っているのではない、決して。この物語で語られているのは、己を愛することであった。そしてまた己でないものを愚か者とすることの空虚さもだ。己との対話、われわれとの対話、彼らとの対話、これを通して描かれたのは他者を蔑ろにすることでも、己を尊く扱うことでもなかった。愚か者と呼ぶ彼らとわれわれの同じであったのだ。
 そう、己と違う他を蔑むのではなく、己と同じ他者を愛し、己の人生を愛せ―どうにもならない他者を、どうにもならないわれわれを、そしてどうにもならないわたしを愛するのだ。この物語はそんなことを私に語りかけてきた。
 この物語の中では、自分にとって都合の良い他者はいない。他者であるはずのわたしと師の関係性は「われわれ」となり、しかし「われわれ」である師も、他者である皇帝も自分勝手に揺れ動き聞き分けのない子供のように思うようにいかない。ここでは文化が違えどエリートとしては同じであり理解し合えることも描かれるが同時に理解し合えない様も描かれている。そして愚か者としての彼らもまた―キリスト教徒もイスラム教徒も―罪の告白の際には同じになってしまった。われわれと彼らは時に同じで時に異なっている。
 あまりに一面的な差異に対する認識と理解、この作品はその愚かさを読者に気づかせてくれる。画一的な洋の東西の対話という滑稽さを、他者との対話が時には虚しくなることを描いている。だからこそ、己の人生を愛することの大切さが、そして他者を愛することの輝きが射しこんでくる。
 
 エジプトでムバラクが失権した、さあ「われわれ」はどの「彼ら」と対話し理解を育めばいいんだろう。自己と向き合う準備は、そして自己と同じであり異なる他者と向き合う準備はできているだろうか。
 己と違い、己と同じである他者を愛せないことの醜さをこの物語は描ていたのかもしれない、思うようにいかない他者は愚か者ではないのだ。*3

「どうして人間というものが、互いに全く異なった存在になるのか、その理由を知る者はあるのだろうか」

*4

*1:白い城は思っていた通りに素晴らしい作品だ、まだ全て読み終えていないが感動している、久しぶりに「これは私のための物語だ」と思える作品に出会えた。

*2:皇帝だけは恐らく気づいているし、人類みな兄弟!的なお話でもない

*3:ちょっと言い過ぎだろうか^^;

*4:「彼にしてみれば、われわれ二人の持つ知識の差とは、独房から持ってきた目の前の書物と、私が諳んじている書物のページ数を合計したものにすぎなかったのである。」

『ひぐらしのなく頃に』批判―排除による信頼構築・合意達成という恐ろしさ

 『うみねこのなく頃に』も完結した今になってこの作品を取り上げるのもどうかと思うが。やはり一言言及しておきたかった…勢いに任せてかなり無理矢理になってしまった。

 この作品のテーマは何であろうか、信頼(構築)、田舎、コミュニティ、反体制、反お役所、市民の力、人と人のつながり、まだまだ上げられそうだからキーワードとして私が注目するのはこの辺りだ。
 ダム反対運動と政府による生物兵器実験という二つが大きな鍵となっているのは相違ないだろう。そして第一の問題に対する運動によって亀裂が入ってしまった村は、第二の問題を乗り越えることによって亀裂は消え去り古くからの呪いからも解放されることになる。さらに雛見沢村と興宮という場所の違いによって表されていたであろう対立関係も魅音と詩音の、大石蔵人と國崎家の和解によって暗に村と街との関係?が改善というか、村と村の一員でないものの相互理解・信頼獲得が達成されたことが描かれている。
 そして主人公前原圭一という新しい風邪の登場によって――何度もループするほど困難であったが―ドロドロとしたものは払拭される*1。作品の概要は概ねこんなところだろう、これで十分だ。
 さて、私はこの作品のどこをとって批判したいのだろうか。それは、この作品の重要なテーマである村的なものと信頼の構築と合意形成のこと―そしてその暴力性である。
 市民運動としてみた「ひぐらし」は、そのチープさによる全能感、口先の魔術師である圭一の熱さでもって村を更には街そしてお役所を動かし、政府との武力闘争は仲間たちと驚異的な能力をもつ人物などによって事も無げに解決していく、解決の困難さはループという手段によってあらわされているが、一度信頼を得てしまったなら立ちどころに問題は好転していった*2
 そもそも「ひぐらし」の鍵となる雛見沢症候群はウイルスが原因としているが、その主な症状は疑念であったりし、これは恐らく村に蔓延る古い因習など村的なものを暗喩しているのだろう。そしてその病は、村が団結し互いに信頼することによってラストではあってないようなものとなってしまった。
 しかし、その過程において―つまり、村が団結する過程において、少なくとも私にとって恐ろしいことが起こる―それは反対意見の排除である。ここで北条という存在が大きな鍵となってくる。ダム反対運動と雛見沢症候群問題の双方において北条家は悪として大変重要な役割を果たす――前者では村の団結を崩しオヤシロさま信仰復興という雛見沢症候群が発症しやすい土壌を作ってしまった一人として*3 
 そう、沙都子の救出によって否定されたはずの村八分であるが、鉄平という遺失物を排除することなしには彼女の村八分は否定されない。もちろん彼は虐待や詐欺などしている悪人なので更生させるべきだが、その分かりやすい悪さによって、団結のための仲間を救うための排除は賞賛されるものとなっている。
 この作品において悲しいのが、対話と信頼構築がテーマであるのに、堂々と他者の排除が正当化されていることなのだ。鉄平と沙都子の両親の排除によって成り立つ信頼構築、結局は村の和を乱すものの排除をもって村は団結するという悲しい事態に陥っているのではないか。そして俺ツエーな怒涛の展開でもって全ては正当化されてしまうと感じるのは斜め読み過ぎだろうか。ダム建設によって生じた村の対立は、村に蔓延る疑心暗鬼の解消ということで解決を見た、としたいのだろうが、作品内で描かれたようなやり方でよかったのだろうか。私はこの辺りがどうしても許せないのである。

 地域コミュニティーの崩壊はこの作品の舞台である昭和58年頃には既にホットなものであった、そして今もお役所や知識人やメディアやインテリもコミュニティー回復の必要性を説いている。公務員であった作者においても、これらの問題は身近な関心ごとだったのだろう。ただ、そうであるなら市民の合意形成の難しさ、信頼構築の困難さをループというチープな表現になぜしたのだろうという不満が私には残る。さらに、公共性の実現において重大な問題となるコミュニティがもつ排除性や封建化は、むしろ肯定されている。圭一は都会から来た若者であるが、すんなりと仲間になり村人化する、余所者でなくなる。しかし一方で余所者である鉄平や小此木はしっかり排除されている。それは必要なこと、仕方のないことであろうか。今日われわえれが置かれているコミュニティ問題や市民・住民という言葉がもつ包摂と排除の問題は、そんな安易なものじゃない。排除によって作られる団結は全体主義と変わらない、もちろん雛見沢村には未来において希望も見いだせるが。新しい住民と古い住民との関係は、ひぐらしでもって解決をみているだろうか。彼とその仲間たちがいれば、新と旧は詩音と魅音のように仲良くやっていけるだろうか。
 ただ、この北条が、村にとって悪いやつではなかった悟史と沙都子を包摂しはしたが、両親と鉄平という反対者が排除された上での仲良しではないか。郷に入れば郷に従え、文句があれば帰ればいい、圭一のようではない新住人は雛見沢でL5を発症してしまうのではないか。まだあの村は雛見沢症候群から解放されていない、きっとまたオヤシロさまは復活する、そんな気が私にはしてならない。
 現代社会が抱えるアポリアに対して作者がとった態度はあまりに安易だ、乗り越えるのが難しい問題を、いとも簡単に、一つの目標にむかい団結して信頼しあうことが出来たことによって解決してみせる。わたしはそこが怖いのだ―結局村的な怖さは解消されていない。住民の団結や対立という問題をテーマに扱うのならば、そこに至るどうしようもない困難にもっと向きあって欲しかった、苦悩してほしかった、何万回も繰り返すことによって生じた奇跡という手段に頼るのではなくって。

*1:解決がご都合主義とかチープとかループする意味がどれほどあったのか、というのは別の話としよう

*2:その好転していく俺ツエーっぷりがカタルシスで魅力につながったのだろうが

*3:これは言い過ぎかな^^)、後者では村を団結させる踏み台としての北条鉄平である。強引に論を進めるが、つまり村が一つになるためには、沙都子を救うために邪魔者は排除される必要があったのだ。((圭一は暴力での排除を試みるが結果的には失敗になる。これ以降より、物理的な暴力という手段は徹底的に否定されるのだが

『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』を読んでの感想

 この作品はイスラエルに暮らすアラブ人であるハビービーによって1974年に発表され、2007年に日本語に翻訳され出版されたイスラエルに暮らしているパレスチナ人からの語りである。これだけでも十分にこの一冊を読む価値はあるだろう。だから、この辺りに関心がある人が一読してみても決して悪いことにはならないと思う。あとはまー僕の感想です

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事


パレスチナイスラエルについて私は何かを語ることはできない
ただ、こういった作品を読むことで沸き上がってくるものを記憶として記しておきたかった

この物語は悲劇であろうか、喜劇であろうか。なんだろうかアタヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノフタ
 中東文学、パレスチナ文学といえばカナファーニーの『太陽の男たち・ハイファに戻って』が有名だ。私も以前読んだことがある。しかし同じパレスチナ文学であっても、その趣はだいぶ異なった。太陽の男たちの中で描かれているあの重苦しさ、暑苦しさ、息苦しさはサイードの物語の中ではあまり見られない。
 そう一言で言ってしまえば暗くない、サイードの物語は気持ちの悪くなってくるくらい変に明るい、ひょうきんで―それは題名にもなっている「悲喜劇屋」である*1イードの軽妙な語り口でによってもたらされる―あまりに滑稽だ。作中で彼が送る人生は十分に悲劇的である、しかしそれが悲劇的であればあるほど喜劇的にもなってしまう―そういう類のものじゃぁなかった。もっと
 なんて言ったらいいのか、僕はこれを読んでいて怖かった笑った。暗くない重々しくないからこそ笑うんだけどさ。宇宙人と交信するサイードもそうだが、色んなことが見に降りかかってもあっけらかんとしているサイードを見て得も言えない濁りが胸の中に沸き上がってくる。グネグネしてくる。
 この気持ち悪さは僕が彼の経験をうまく理解できないからなのか、たぶんそれ以上の何かがあるんだけど分からない。でも、この経験は僕が今まで知っていた世界とは別の世界が、あることを痛烈に剥き出しにした。読書体験って言葉は嫌いなんだけど、そんな感じなんでしょうか?わかんない。無理やりポジティブに言えば他者との対話とか、フランケンシュタインとお茶した感じなのかもしれない。たぶん違う、違わないと思うけどそうじゃない。その理解じゃチャラくなっちゃう―これじゃご立派でクソったれな上から目線じゃねーですかい、閣下!違うんですかい?あなたも奴に蹴躓いちまうんですかい?そんなかんじ
 たぶん、今私のなかにあるこの作品の理解は、大きく間違っているものではないと思う*2。宇宙人とか、失踪してしまうことは、たぶんあのことを指しているんだろうとはおもう。でも、その理解はすくなくとも私の中じゃ失敗なんだ―そんなことを私に感じさせ葛藤させた一冊だった。

追記:やっぱり私にとってはサイードとユアードの関係が、特に「第三のユアードを待ちながら」からの流れが印象深く、その後の彼の彼女に対する態度が衝撃的だったし、いちばん楽しかったり面白かったりホニャララだった。

*1:だからシェイクスピアが出てきたんだ!

*2:あーもっと悲喜劇的にこのことを語れたらなぁ