『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』を読んでの感想

 この作品はイスラエルに暮らすアラブ人であるハビービーによって1974年に発表され、2007年に日本語に翻訳され出版されたイスラエルに暮らしているパレスチナ人からの語りである。これだけでも十分にこの一冊を読む価値はあるだろう。だから、この辺りに関心がある人が一読してみても決して悪いことにはならないと思う。あとはまー僕の感想です

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事


パレスチナイスラエルについて私は何かを語ることはできない
ただ、こういった作品を読むことで沸き上がってくるものを記憶として記しておきたかった

この物語は悲劇であろうか、喜劇であろうか。なんだろうかアタヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノフタ
 中東文学、パレスチナ文学といえばカナファーニーの『太陽の男たち・ハイファに戻って』が有名だ。私も以前読んだことがある。しかし同じパレスチナ文学であっても、その趣はだいぶ異なった。太陽の男たちの中で描かれているあの重苦しさ、暑苦しさ、息苦しさはサイードの物語の中ではあまり見られない。
 そう一言で言ってしまえば暗くない、サイードの物語は気持ちの悪くなってくるくらい変に明るい、ひょうきんで―それは題名にもなっている「悲喜劇屋」である*1イードの軽妙な語り口でによってもたらされる―あまりに滑稽だ。作中で彼が送る人生は十分に悲劇的である、しかしそれが悲劇的であればあるほど喜劇的にもなってしまう―そういう類のものじゃぁなかった。もっと
 なんて言ったらいいのか、僕はこれを読んでいて怖かった笑った。暗くない重々しくないからこそ笑うんだけどさ。宇宙人と交信するサイードもそうだが、色んなことが見に降りかかってもあっけらかんとしているサイードを見て得も言えない濁りが胸の中に沸き上がってくる。グネグネしてくる。
 この気持ち悪さは僕が彼の経験をうまく理解できないからなのか、たぶんそれ以上の何かがあるんだけど分からない。でも、この経験は僕が今まで知っていた世界とは別の世界が、あることを痛烈に剥き出しにした。読書体験って言葉は嫌いなんだけど、そんな感じなんでしょうか?わかんない。無理やりポジティブに言えば他者との対話とか、フランケンシュタインとお茶した感じなのかもしれない。たぶん違う、違わないと思うけどそうじゃない。その理解じゃチャラくなっちゃう―これじゃご立派でクソったれな上から目線じゃねーですかい、閣下!違うんですかい?あなたも奴に蹴躓いちまうんですかい?そんなかんじ
 たぶん、今私のなかにあるこの作品の理解は、大きく間違っているものではないと思う*2。宇宙人とか、失踪してしまうことは、たぶんあのことを指しているんだろうとはおもう。でも、その理解はすくなくとも私の中じゃ失敗なんだ―そんなことを私に感じさせ葛藤させた一冊だった。

追記:やっぱり私にとってはサイードとユアードの関係が、特に「第三のユアードを待ちながら」からの流れが印象深く、その後の彼の彼女に対する態度が衝撃的だったし、いちばん楽しかったり面白かったりホニャララだった。

*1:だからシェイクスピアが出てきたんだ!

*2:あーもっと悲喜劇的にこのことを語れたらなぁ