『ひぐらしのなく頃に』批判―排除による信頼構築・合意達成という恐ろしさ

 『うみねこのなく頃に』も完結した今になってこの作品を取り上げるのもどうかと思うが。やはり一言言及しておきたかった…勢いに任せてかなり無理矢理になってしまった。

 この作品のテーマは何であろうか、信頼(構築)、田舎、コミュニティ、反体制、反お役所、市民の力、人と人のつながり、まだまだ上げられそうだからキーワードとして私が注目するのはこの辺りだ。
 ダム反対運動と政府による生物兵器実験という二つが大きな鍵となっているのは相違ないだろう。そして第一の問題に対する運動によって亀裂が入ってしまった村は、第二の問題を乗り越えることによって亀裂は消え去り古くからの呪いからも解放されることになる。さらに雛見沢村と興宮という場所の違いによって表されていたであろう対立関係も魅音と詩音の、大石蔵人と國崎家の和解によって暗に村と街との関係?が改善というか、村と村の一員でないものの相互理解・信頼獲得が達成されたことが描かれている。
 そして主人公前原圭一という新しい風邪の登場によって――何度もループするほど困難であったが―ドロドロとしたものは払拭される*1。作品の概要は概ねこんなところだろう、これで十分だ。
 さて、私はこの作品のどこをとって批判したいのだろうか。それは、この作品の重要なテーマである村的なものと信頼の構築と合意形成のこと―そしてその暴力性である。
 市民運動としてみた「ひぐらし」は、そのチープさによる全能感、口先の魔術師である圭一の熱さでもって村を更には街そしてお役所を動かし、政府との武力闘争は仲間たちと驚異的な能力をもつ人物などによって事も無げに解決していく、解決の困難さはループという手段によってあらわされているが、一度信頼を得てしまったなら立ちどころに問題は好転していった*2
 そもそも「ひぐらし」の鍵となる雛見沢症候群はウイルスが原因としているが、その主な症状は疑念であったりし、これは恐らく村に蔓延る古い因習など村的なものを暗喩しているのだろう。そしてその病は、村が団結し互いに信頼することによってラストではあってないようなものとなってしまった。
 しかし、その過程において―つまり、村が団結する過程において、少なくとも私にとって恐ろしいことが起こる―それは反対意見の排除である。ここで北条という存在が大きな鍵となってくる。ダム反対運動と雛見沢症候群問題の双方において北条家は悪として大変重要な役割を果たす――前者では村の団結を崩しオヤシロさま信仰復興という雛見沢症候群が発症しやすい土壌を作ってしまった一人として*3 
 そう、沙都子の救出によって否定されたはずの村八分であるが、鉄平という遺失物を排除することなしには彼女の村八分は否定されない。もちろん彼は虐待や詐欺などしている悪人なので更生させるべきだが、その分かりやすい悪さによって、団結のための仲間を救うための排除は賞賛されるものとなっている。
 この作品において悲しいのが、対話と信頼構築がテーマであるのに、堂々と他者の排除が正当化されていることなのだ。鉄平と沙都子の両親の排除によって成り立つ信頼構築、結局は村の和を乱すものの排除をもって村は団結するという悲しい事態に陥っているのではないか。そして俺ツエーな怒涛の展開でもって全ては正当化されてしまうと感じるのは斜め読み過ぎだろうか。ダム建設によって生じた村の対立は、村に蔓延る疑心暗鬼の解消ということで解決を見た、としたいのだろうが、作品内で描かれたようなやり方でよかったのだろうか。私はこの辺りがどうしても許せないのである。

 地域コミュニティーの崩壊はこの作品の舞台である昭和58年頃には既にホットなものであった、そして今もお役所や知識人やメディアやインテリもコミュニティー回復の必要性を説いている。公務員であった作者においても、これらの問題は身近な関心ごとだったのだろう。ただ、そうであるなら市民の合意形成の難しさ、信頼構築の困難さをループというチープな表現になぜしたのだろうという不満が私には残る。さらに、公共性の実現において重大な問題となるコミュニティがもつ排除性や封建化は、むしろ肯定されている。圭一は都会から来た若者であるが、すんなりと仲間になり村人化する、余所者でなくなる。しかし一方で余所者である鉄平や小此木はしっかり排除されている。それは必要なこと、仕方のないことであろうか。今日われわえれが置かれているコミュニティ問題や市民・住民という言葉がもつ包摂と排除の問題は、そんな安易なものじゃない。排除によって作られる団結は全体主義と変わらない、もちろん雛見沢村には未来において希望も見いだせるが。新しい住民と古い住民との関係は、ひぐらしでもって解決をみているだろうか。彼とその仲間たちがいれば、新と旧は詩音と魅音のように仲良くやっていけるだろうか。
 ただ、この北条が、村にとって悪いやつではなかった悟史と沙都子を包摂しはしたが、両親と鉄平という反対者が排除された上での仲良しではないか。郷に入れば郷に従え、文句があれば帰ればいい、圭一のようではない新住人は雛見沢でL5を発症してしまうのではないか。まだあの村は雛見沢症候群から解放されていない、きっとまたオヤシロさまは復活する、そんな気が私にはしてならない。
 現代社会が抱えるアポリアに対して作者がとった態度はあまりに安易だ、乗り越えるのが難しい問題を、いとも簡単に、一つの目標にむかい団結して信頼しあうことが出来たことによって解決してみせる。わたしはそこが怖いのだ―結局村的な怖さは解消されていない。住民の団結や対立という問題をテーマに扱うのならば、そこに至るどうしようもない困難にもっと向きあって欲しかった、苦悩してほしかった、何万回も繰り返すことによって生じた奇跡という手段に頼るのではなくって。

*1:解決がご都合主義とかチープとかループする意味がどれほどあったのか、というのは別の話としよう

*2:その好転していく俺ツエーっぷりがカタルシスで魅力につながったのだろうが

*3:これは言い過ぎかな^^)、後者では村を団結させる踏み台としての北条鉄平である。強引に論を進めるが、つまり村が一つになるためには、沙都子を救うために邪魔者は排除される必要があったのだ。((圭一は暴力での排除を試みるが結果的には失敗になる。これ以降より、物理的な暴力という手段は徹底的に否定されるのだが