『白い城』私的感想―われと同じである他を愛し、私を愛せ―

 2006年度ノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの一冊であり、キリスト教徒のわたしとイスラム教徒の師の交流を通し東洋と西洋との対話を描いている様に見せ、己の人生を愛すること、他者を愛すること、その道程が描かれた作品である*1以下私的感想

白い城

白い城

 
 私は、この物語がいわゆる知的エリートの物語―その苦悩や傲慢、苛立ち、シニカル、挫折、喜びなどを描いた作品―なのではないかと期待し読み進めた。
 しかし何よりもこの物語を手にとった理由は帯にも書いてある「人は、自ら選び取った人生を、それがわがものとなるまで愛さねばならない」という一節が私の心を射止めたからだった。そして読み終えて私のこの感性は間違ってはいなかったと、それ以上のものだったと確信している。

 話を読み進めていくとこの作品がエリートの物語、しかし価値観の異なる世界で育ったエリートによる対話の物語であることがわかる。もっと正確に言えば他者との対話なのだ、洋の東西もそうだが知的エリートと民衆や権力者とが対話する、そこでエリートが希望を持ち挫折し憤慨し自棄になり、また一喜一憂する、それが本書の魅力であり物語の一角である。そしてわたしはその師と師以外の対話を眺め、師として対話し、師を通しても対話する。
 そう、この物語は対話篇であった。異民族との、民衆との、権力者との、己との知的エリートによる対話篇であり、その際の苦悩や挫折などを描いた作品なのだ。
 しかし対話を重ねるにつれ、他者にふれていくにつれて、わたしや師のアイデンティティは揺さぶられ己が壊され不安定になっていく。

人は、自ら選び取った人生を、それがわがものとなるまで愛さねばならない(90)

 という一節がここでまた輝いてくる。つまり自分で自らの人生に意味を見出すことの大切さ、愛することの大切さが描かれ始める、そして皇帝という他者に己の人生の意味を託すことの脆さ儚さ空虚さが対極として配置されているのでは、とも思えてくる。いや、こういった二元論を超えていこうと、自己との対話と他者との対話が頻繁に入れ替わっているのかもしれない。それは対ではなく、洋の東西のせめぎ合いでもなく、単にエリート二人の葛藤と不理解でもない。師はわたしとなろうとし、わたしは師とわたしがあまりに似ていることに慄く。そして師はわたしと師が同じであることを何か憎み、そして愛していた!
 この物語を読み進め、対話篇だと思い込んできた私のなかで対話という言葉がなにか陳腐なものになってきた―わたしと師の関係は物語が進むに連れ曖昧に不安定になり遂には入れ替わってしまった。私が当初想定していたようなエリートによる対話篇、それは本題ではなかったのかもしれない。
 では、この作品の中心はなんであろうかそれは以下の文章に端的に表されているのではないか
 

イスラム教との村民も、キリスト教徒の隣人たちと似たり寄ったりの告白しかしなかった197
イスラム教徒もキリスト教徒も同じようなことしかいわない198

「人間というものが、どこであれ同じ存在にすぎないことの最良の証左は、彼らが互いの地位を交換しあうことではなかろうか?」220

 
 これらは差異を否定する発言だ。「わたしはなにものなのか」というアイデンティティをぶち壊す発言だ。対話を繰り返すエリートの挫折、希望と期待をもったエリートの挫折、それを通して描かれているのは、陳腐化していく対話、他者との差異という陳腐さ、その様が描かれているのかもしれない(いや逆なのだろうか)。物語の折々で出てくる「われわれ」と「かれら」、その両者の違いを見出そうと師は執心する、しかしそれは終ぞ果たされなかった。落胆するために必要な喜びも期待も潰え、「われわれと彼ら」は融け合ってしまう。そのことは「わたし」と師が入れ替わり誰もそれに気づかないことによって表されている。*2

 この物語には洋の東西の対話に見せかけたトラップが敷かれていた。この物語では他者と対話することに対する疑問が投げかけられている。物語中盤の「わたしはなにものなのか」という問いは哲学的・社会的な問題としてアイデンティティの危機を扱っているのではない、決して。この物語で語られているのは、己を愛することであった。そしてまた己でないものを愚か者とすることの空虚さもだ。己との対話、われわれとの対話、彼らとの対話、これを通して描かれたのは他者を蔑ろにすることでも、己を尊く扱うことでもなかった。愚か者と呼ぶ彼らとわれわれの同じであったのだ。
 そう、己と違う他を蔑むのではなく、己と同じ他者を愛し、己の人生を愛せ―どうにもならない他者を、どうにもならないわれわれを、そしてどうにもならないわたしを愛するのだ。この物語はそんなことを私に語りかけてきた。
 この物語の中では、自分にとって都合の良い他者はいない。他者であるはずのわたしと師の関係性は「われわれ」となり、しかし「われわれ」である師も、他者である皇帝も自分勝手に揺れ動き聞き分けのない子供のように思うようにいかない。ここでは文化が違えどエリートとしては同じであり理解し合えることも描かれるが同時に理解し合えない様も描かれている。そして愚か者としての彼らもまた―キリスト教徒もイスラム教徒も―罪の告白の際には同じになってしまった。われわれと彼らは時に同じで時に異なっている。
 あまりに一面的な差異に対する認識と理解、この作品はその愚かさを読者に気づかせてくれる。画一的な洋の東西の対話という滑稽さを、他者との対話が時には虚しくなることを描いている。だからこそ、己の人生を愛することの大切さが、そして他者を愛することの輝きが射しこんでくる。
 
 エジプトでムバラクが失権した、さあ「われわれ」はどの「彼ら」と対話し理解を育めばいいんだろう。自己と向き合う準備は、そして自己と同じであり異なる他者と向き合う準備はできているだろうか。
 己と違い、己と同じである他者を愛せないことの醜さをこの物語は描ていたのかもしれない、思うようにいかない他者は愚か者ではないのだ。*3

「どうして人間というものが、互いに全く異なった存在になるのか、その理由を知る者はあるのだろうか」

*4

*1:白い城は思っていた通りに素晴らしい作品だ、まだ全て読み終えていないが感動している、久しぶりに「これは私のための物語だ」と思える作品に出会えた。

*2:皇帝だけは恐らく気づいているし、人類みな兄弟!的なお話でもない

*3:ちょっと言い過ぎだろうか^^;

*4:「彼にしてみれば、われわれ二人の持つ知識の差とは、独房から持ってきた目の前の書物と、私が諳んじている書物のページ数を合計したものにすぎなかったのである。」