自然について雑記メモ

 シュトラウスは古代において自然権は徳や人格的完成と密接な関係があったが、近代においては事実判断と価値判断が切断され、大衆社会から全体主義へ道を開くこととなったとする。古代において自然は普遍的なものとして捉えられていたため自然権は可能であった。
 自然の語源のピュシスであり生成、成長が本来の意味であったといわれ、それが変わり本質・本性という意味になった。それによりピュシスはノモス即ち習慣、法、政治制度、なとと対立する概念となっていく。(ギリシャ時代の自然観は目的論的・有機体論的であった。)
 キリスト教が支配する中世において自然は恩寵gratiaにたいするnaturraであった。アウグスティヌスは人間の本性・自然には、失楽園以前の健全な自然、罪による損傷された自然、キリストの恩寵によって更新された自然の3つの段階があるとした。神の恩寵は自然をこえた超自然的なものなのである。トマス・アクィナスは「恩寵は自然を廃すのでなく完成するもの」としている。
 近代合理主義、デカルトは我思う故に我ありを発見し、精神と物体が分断され自然は物質側に属することとなり、幾何学・数量的世界の対象となった。これはコペルニクスガリレオの捉えた自然観と酷似している。ただデカルトにおいても自然の法則や真理は神の意志による創造物という域をでなかったとみなせるのだが、神の目的は人間の理性を超えており、そこから物質としての人工物と自然物の区別は無くなった。
 こうした機会論的自然観をホッブス唯物論的方向で徹底した。ホッブスの自然観は物体一元論であり精神も人間も社会も物質とされた。自然は因果的・数量的に理解できるものとし、目的因や形相因を排除し作用因のみを因果関係における原因とみなした。(ホッブスキリスト教神学を厳しく批判している)
 スピノザはその思索を神から出発するが、彼が語る神は超越的なものではなく、内在神であり自然と同じものであった。彼の言う実体は他の原因から独立した自己原因であり、無限である。同じ本性をもつ実体は二つ存在することは出来ず、従って必然的に無限であるので絶対無限の存在者たる神と同じなのである。「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない」という定理を導き、「神即自然」とした―汎神論と呼ばれる所以だろう。
 スピノザの自然を理解するためには「所産的自然」と「能産的自然」を理解する必要がある。中世神学者は合目的的に万物を創造する普遍的原因としての神を能産的自然、上によって創造された世界を所産的自然と読んでいた。だがスピノザはそう考えず、能産的自然をそれ自信の本性から活動する自己原因として、所産的自然を神の一切の様相と考えた。つまり神即自然における自然も所産的自然でなく、能産的自然なのである。話を端折るが、スピノザにおいて神と自然は同義であり神の必然性と自然の必然性とも同義となる。自然の必然性は幾何学的・数理的必然性であり、自然が必然的関係から成立しているがゆえに、自然から全ての目的・価値が取り除かれる。
 僕らのライプニッツ!は、数こそ究極的実在であると考えた。算術が1と0からなるように宇宙も根源的存在者としての1である神と、0である無からなっている。1たる神が最高のモナドで、その産物が無数の独立した個体としてのモナドであり、それを実体とした。このモナドには神、人間の精神としてのモナド有機生命体としてのモナド、裸のモナドといわれる無機物的物質世界を形成するモナド、という4つの段階がある。この4段階は表象の度合いの差に過ぎずそれぞれ独立しながらも連続している。連続しているので一方の変化は他の変化に応じる―精神と物質では精神のが明確であるから精神の変化が物質の変化の原因とし物質の変化の説明を与えることができる。この実体間の総合はなぜおこなわれるか、ライプニッツによればあらゆる実体の間には予定調和があるからだとする。実体間の総合が予定調和によって起こるということは、目的因と作用因とが調和することを意味する。ライプニッツは自然現象は作用因からだけでなく目的因からも照明できると考えたのだ。ライプニッツの自然は一つの大きな有機体といっていい。

 イギリスのボイルはキリスト教の宇宙・自然観と自然科学上の機会論とは結んすることなく共存しえた。両者の自然の根拠は内部にではなく外部、キリスト教の自然の存在根拠が設計者たる神にあるように、機械の存在根拠も製作者にある。ニュートンもまた自然の究極の秘密を曖昧なまま残していた―重力の原因を明らかにせず、重力を物質固有の力能であるとする考えを否定した。自然の存在根拠は神に由来し、自然の確実性は神によって保証されているという神学を信じていたといえるだろう。
 こうした考えは次第に衰退し、自然科学の分野ではキリスト教から切り離された機械論が支配的になっていった。それは神の存在を前提とせずとも自然科学上の法則は発見でき、その確実性が保証されるようになっていったからともいえる。このように近代の自然科学はキリスト教を離れ独自の道を拓いていき、自然科学に対する楽観主義も広がっていくこととなる。
 ロックもまた神学の影響が色濃く残る。*1そのロックにおいて神学とその社会科学の認識論や諸理論とを結びつけるものが自然法natural lawであった。自然法の特徴は古代ギリシャソフィスト以後から中世においても長い間「理性の法」であった。ただ中世では自然法は神と人間が共有する能力のこととされ、自然法は神法の一部であるとされた。そしてロックは自然法は自然の光によって認識可能であるとし、自然の光とは人間が自然によって賦与された諸能力を正しく用いるならば、一人で真理に到達可能にするものを意味する。自然法を認識する方法は刻印、伝承・伝統、感覚の三つがあり。刻印とは生得的知識であり、自然法の認識方法としては否定されている。もし生得的に自然法が存在するならば、それは普遍的に認められるべきであろうが、そうではない。これは精神が感覚によって印象を受け入れる前は白紙であることを示している。伝承は部分的には当てはまるが原初的源泉ではない。そうではなく理性(と感性)という自然の光によって自然法は認識できるとする。
 ロックは自然法もまた法であり、人々が正当に服従すべき立法者が存在していること、立法者が人々に示す意志が存在しており人々はその意思に従って生活せねばならないという、二つのことが前提されているとする。そして理性と感性が相互に助けあうことによって、人々に知らしめることが出来るのである。感性は自然界に知覚しえる対象が存在していることを明らかにしてくれる。そしてこの自然世界は驚くべき規則性をもって構成されており人間もその一部である。そして理性は感性が知覚した世界を考察し、創造主である神を見出す。すべての人間は理性と感性を行使し得るので自然によって自ら神を発見することができるのである。神を信仰することは人間の義務の一部だが、また人間はその自然的能力である理性と感覚を使って神の作品に考慮を払い、社会において他の人々と生活をともにすることも、自らの義務としなければならない。つまり人間は、神と自分自身と隣人に対して義務を持っているのである。ロックにおいて神学と社会科学との結合が自然法の認識方法の議論を通してなされている。

バークリーにおいて神と自然と人間の関係を端的にあらわしているのは「自然の著者の言語」Language of the Author of Natureという語句であるとされる。バークリーの神の存在の設計論的証明も、その理解のためにあった。そして設計論的証明を視覚的言語と「存在するとは知覚されることである」という認識原理の2つの方向から行われている。彼の視覚論では視覚観念と触覚観念の習慣的結合によって機能する視覚を「自然の造り主の言語」としている。バークリーは「神は、私達自身から別個なあらゆる心ないし精神と同時に、絶対確実かつ直接にしられる。いや、神の存在は人々の存在よりはるかに明白に知覚されると主張してさえよい。なぜなら、自然の結果は人間という能作者にきせられる結果より無限に数多く著大であるからである」。「まことに造物主こそ、その力ある言葉を持って万物を保ちながら、もろもろの精神の間の交わりを維持したもう唯一の御方であり、これによってもろもろの精神は相互の存在を近くできるのである」。
 これを踏まえると、バークリーが知覚し得る結果から知覚し得ぬ原因へと進む因果原理が受容されているとわかるだろう・・・わかってくれ私もよくわかってない。まーあれ、可感覚的事物より構成されている自然界には合理的な秩序・一貫した運動法則・動物と植物や天体と諸元素の間には関係があると見られる。以上のことが観察可能なのは、同じ目的や設計にむかって協力しているからである。そしてそれを可能としてるのは「人間の霊魂のもつものとは比較にならぬ大きな力や智慧」が存在しているからだと推論できるとする。以下略、バークリーは感覚から出発し重視していた点で中世神学と異なるし、経験主義的だね。

 自然にいちおう注目しているので、道徳感覚学派の始祖シャフツベリの自然道徳あるいは倫理的自然主義について触れよう。シャフツペリの自然観は後述するだろうボイルのと反対で自然の神格化がおこなわれている。彼は自然の神格化により神学から超自然的なことを排除し、道徳の土台は事物の自然the nature of thingsあるいは人間の本性human natureに置かれるのが望ましいと考えた。ボイルにおいては自然は神の代理者ではなかった、しかしシャフツベリにおいては神は自然と同じ物であり無上に公正なこの上なく善なる、作為artによってもとらされた何よりも高貴な作品をもたらすと摂理の代理者であった。シャフツベリは信仰の土台を自然つまり事物の秩序に置く。従って奇蹟は自然、秩序に対する違反として斥けられる。
 そんなわけで唯一絶対の神であるキリスト教では余り問題とならなかった、調和とか統一性とか統合とか正当性とか体系とか秩序とかが切実で重大な難問となってしまったのであるシャフツベリにおいては!!これは人文科学において重大なことだよーー。
 彼は多神教を認めていたらしい、彼によれば設計原理によって「すべてのものが支配され秩序づけられている」ことを信じるものが有心論者であり、設計原理を信じず「自然においては、全体の利益も特定のものの利益も少しも設計されていないと考えるものが無神論者である」とする。シャフツベリは神の存在ついて設計論的証明を支持した。

*1:彼は統治二論でフィルマーの王権神授説を批判したのは有名だ。王権神授説は、神はアダムに世界及び世界を支配する権力を与えた。それは父親が生命と生存を子に与えているので父は子に対し権力を持っているのと似ているとし正当化していた。ロックは父が子に生命を与えているのではなく神であるとし批判した