必然と自由のメモ

 西洋思想史における人間の自由意志に高い関心が払われるようになったのは中世のキリスト教神学であるといわれている。もちろんギリシアのころにも、たとえばエピクロスおよびエピクロス学派デモクリトスの万物は原子からなりそれらの速度や形はあらかじめ与えられており人間の行為や状態もそのように決まっているという決定論を批判し動物や人間には自発性などが見られるとした。 
 自由意志についての関心は、意志の自由と予定説との論争が神学者の間で展開されていたからである。かのアウグスティヌスとペラギウスの論争の中心も自由意志問題が中心であった。
 すべてを神に委ねるアウグスティヌスの態度は人間の道徳心を堕落させる―人には自由意志があり善行悪行もできるのであり、個人の自由意志を尊重すべきとした。一方アウグスティヌスは人の善行は本人の意志ではなく、神の恩寵によってはじめて導かれる!しっかーもこの恩寵は平等に分配されてはいない!恩寵を有するものは救済されるが、ないもの地獄行きが生まれた時より定められてる!とした予定説ぱないっすね。その後予定説派もトマス・アクィナス神はすべてを予定してるけどさー個人の行為の自由を奪うことはしないよ、だって人間は理性と意志を持っていて他の被造物と異なる人間すごいもん、となっていった。理性があるから意志の自由があり、理性は判断する能力であり判断するためには予め決定はされていないということである。よって行為を選択する意志の自由はあるのである。
 その後になるとルターとエラスムの論争によってまたホットになる。エラスムは自由意志は人間の生まれ持った能力であり、恩寵へと己を適応させたり離反させたりすることができる*1。ルターこれに激怒!こんなのは人間中心主義だ、人の意思は必ずしも自由ではなく寧ろ不自由な奴隷的である。人初見のうちにあり善に対しては無力である、即ち人間は神の予知のまま行為しているのであり、自らの意志によって行為してはいないのである。カルヴァンはさらにこのルターの予定説を徹底させ神中心主義を唱えた割愛
 近代合理主義も自然の諸現象に必然主義的関係・合理主義因果論を見出し決定論者であったが、同時に人間の自由の場を見出そうともしていた。デカルトはなぜ人は髪がいるのに悪をするかという問に対し、人間の自由は意志や判断にありそこに悪や誤りが発生するという。そのため神の恩寵や自然科学の知識は自由を減少させるのではなく、誤りをなくし自由を拡大強化する。従って内的自発性の程度に比例し自由は拡大する、つまり無差別の自由ではない。u-nnちゃんとりかいできてないです
 ライプニッツも自由は自発論―つまり自己決定と結びつけている。彼は、世界には無数の可能的世界があり、実体にもまた無数の可能的実体がある。神は完全で最善の世界を作る実体を選び存在させたといい、絶対的必然に至る以前の仮定的必然性においては偶然性も存在しその可能性を自由と同一視した。
 スピノザは奴隷と自由について、奴隷とは主人の命令―それが彼の利益となるとならないとにかかわらず―に服せざるを得ぬ者のことである。いっぽう主権者の命令に服すものの、そうすることが自分を含む人々の利益になるという合理的判断に従って服するのが自由な臣民であるとし、理性の完全な指導の下に自由な合意によって生きている人間を自由とした。

 私の大好きホッブスさんは自由に関して、自発的行為とは人間の思慮による行為のことである。思慮とはある行為の善い悪い結果についての代換的想像imagination、あるいはその行為を為すなさざることに対する代替的欲求である。思慮、即ち対立する欲求の代替的継起の中で最後のものを意志willという。自発的行為は選択に基づいた行為であり、選択に基づく行為は自由な行為である。自由とは、行為者の本性と固有の性質に含まれない行為に対するすべての障害が欠けている状態である。自発的な行為も必然的原因を有しており必然的に生み出される。十分な原因がるということは、結果を生み出すに必要なものがかけていないことであり必然的原因である。自由な行為者に関する通常の定義、即ちその結果を生み出すに必要なすべてが存在している時、それにもかかわらずそれを生み出し得ない行為のことであるという定義は矛盾している。故に必然と自由は対立せず両立する。
 ついでにロックは意志という何かを変化させ得る能動的力能を合理的行為者たる人間は有しており、自由はこの人間が自己の意志に従って為したり為さなかったりすることである。しかし同時に人は、そこから外れた行為もできる、つまり自発性の自由だけではなく無差別の自由をも持っているのである。そして必然はこの自由がない状態をさす。

ヒュームは自由に関して、自発的自由(暴力に対立する自由)と無差別の自由(必然性・原因を否定する意味での自由)を区別し得るものはほとんどいない。ただ、無差別の自由とはほとんど偶然と同意義でありまた道徳を破壊すると否定し、自発性の自由と強制からの自由を説いた。彼は人の道徳的責任にとって自発的自由を確保しておくことは重要であると考えた―そしてこの自発的自由、意志行為における自由はホッブスのそれとそっくりであった。ただ多少異なり注目すべきところは、自由が道徳的責任にとって不可欠であるとしている点だろう。


じかいにたぶん道徳と自由みたいなかんじになるのかな

*1:この場合恩寵の導きは特に考慮にいれない