自然概念についてメモ2

バトラーさんの道徳哲学では「徳は自然に従うことであり、悪徳は自然からかいりしていることである」とする。ここで語られる自然とはどのようなものだろうか。*1彼は自然には、人間を構成する諸要素という意味がある-これは世界のいかなるものも自然の一部であるとい意味と同じである。ただこう考えると、人間の行為全ては人間の自然の一部となるので、すべての行為が徳となる不都合が発生する。そうではなく人間の本性は、神が設計によりφすることに役立つように人間を創ったという事実によって説明されなければならい。つまりφすることに適合している場合またはその場合のみ人間は自然にしてがっており、そうでない場合は不自然であり悪徳な行為となるのである。
 
人間の自然・人間の本性も物理的自然・宇宙も神に設計=意図designによって目的的に構成されている。このような思想は多くの思想家の根底にあったことが伺える。上に寄って道徳感覚は賦与され、その客観性は神によって保証されている。

 さてみんな大好きアダム・スミスはどう自然を考えたのだろうか。彼の倫理学、邦楽、経済学の土台にはキリスト教神学があったように、自然概念においても色濃く現れている。たとえば「自然が人間を社会に適するように造るのに際し、自然は人間に自分の仲間のものを喜ばせたいという原本的な欲望とともに、自分の仲間のものを怒らせることを嫌う反感を賦与した」と語っている。しかしこの自然は目にすることかなわず、「見えざる手」と表現される。*2彼は近代自由主義経済体制を「自然的自由の体系」a system of natural libertyと読んだが、この自然的という語には目的論的要素の見えざる手が付与されていたのである。国富論においてアダム・スミスは、個人の欲求や利己心も神の見えざる手に導かれ、社会利益・公共の福祉をもたらすのであるとしている。近代初期の道徳哲学や社会科学においては、この個人的欲求や利己心がなぜ社会利益公共の福祉をもたらすかが最大の問題であったのだ。アダム・スミスはその回答として神の見えざる手という目的論的な要素を導入したのであった*3。見えざる手は神のメタファーだが、それは神が常に事物の進行に介入しているという意味ではなく、神は設計者であり、時計とおなじように適切な場所に歯車がおかれれば、あらかじめ設計され決められたとおりに動く。神は初まりにおいてそのように宇宙を設計していたんだって意味での「見えざる手」であり、経済も人間社会も背後には設計者としての神の見えざる手が働いているとしている。*4かれの神学的前提は「神によってはじめて命じられた事物の自然的秩序あるいは配列があり、人間の義務と幸福に恵まれる機会とが、この自然的秩序とはなんであるか、ということを人間が発見し、したがって自然的秩序と協働することにかかっている」というものである。そのうえで彼は「個人は、自分の自由にできる資本があれば有効に使おうと努力するものである。それは自分の利益であり社会の利益ではない。けれども、かれ自身の利益を追求していくと、かれは自ずからnaturally、というよりむしろ必然的にその社会にとって有利な資本の使い方を選ぶ結果になる」としている。ここでは自然が必然的に近い意味でつかわれ、それは神学的な道徳哲学を前提としているからである。


 まじ「自然」って概念曖昧すぎww思想史上重要なのに、ヒュームやミルもそんなことをこぼした一人だった。ミルによるまとめによると自然には少なくとも二つの重要な意味があり、その一つは「外的世界あるいは内的世界の何れかに存するすべての力、そしてこれらの力によって生じるものすべて」を意味し、もうひとつは作為と対立する「発生するものすべてではなく、人間の作用がなくて、つまり人間の自発的意図的作用がなくておこるもののみ」を意味する。
 自然という語は規範化し、本質という意味を獲得することによって自然概念の絶対化、そのため絶対的なイデアや神や理性と意味が重なり同一なものとなり、さらには自然がその絶対的実体として作為の主体にもなってしまったところに混乱の原因のひとつがあるのかもしれない。自然が絶対的実体と結びつくと神や理性と同一のものになってしまう。
 ギリシア時代あたりにおいて自然の意味は、存在・材質、成長・生成、存在全体の3つだった。それから自然は規範化し本性とか本質という意味を獲得していく。そうなると次第に作為nomosと対立していく。ここから自然法と実定法の対立軸なども生じていった。さらにこの本質が絶対化されると、実体―イデアや第一形相などと結びつくようになった。キリスト教神学においては神が自然を支配下に起かれ、その完成は内に求められず超自然的な補強を必要としていた。ルネサンスになると汎神論が登場、自然と神を同一視した云々。近代合理主義のデカルトになると被造物=自然の中に見出される真理=自然法則は永遠不動万古不易
であり、その根拠として神を自然法則を定めた神の意志の普遍を求めた。
 デカルトなどの合理主義はかなり暴力的に表せば神=自然=理性である。それをイギリス経験論は批判していく。神の存在証明において目的炉的(設計論的)証明を用いていた合理主義に対し、経験主義は特にヒュームは神を宗教を理性を用いて理解することを拒否したのである――すべての知識は経験によるとしたロックは、神の観念も生得観念ではなく経験によるとしたが、神は万物の創造主、宇宙の設計者であることにかわりはなかった。
 ヒュームは人性論の中で、自然を奇蹟・稀有な・作為的・市民的・道徳的に対立する言葉としている。なず奇蹟は自然の法則の侵害だと見なされている。奇蹟はあったとしても見えざる作用者の介入であり、奇蹟を例外として、この世に起こる出来事全ては自然的なものとみなす。
 作為と自然の対立はストア派エピクロス派の対立をもちいて語られる。ストア派は人の作為、すなわち理性や作為的規則によって人間の幸福は達成できるとするが、エピクロス派は自身の―自然の命令である―情念と嗜好によって幸福は達成できるとする。絶対化された自然によって情念と嗜好は権威付けられ、真理であるかのようになる。
 一方ストアは人間と動物を比較し、自然としての本能と作為としての知能や理性を神は授けたとする。そして人は自然にある物質を職人として加工し生活をする必要があり、そのためには勤勉でなければならないが、勤勉によって目的とする最大幸福に達成すると説く。彼らは永続的幸福を求め勤勉によって得られた徳こそが幸福を保証すると考えた。いっぽう自然にたいしては、彼らは自然に従って生活することが最大の徳とも考えた―自然は徳に対して莫大な持参金を与えてきた、しかも専ら徳への愛に浸っている人々にのみ魅力を持ち得ていた、つまり栄光こそが徳の持参金である。プラトン派になると自然を超越なものとし絶対化することによって、感覚的快楽を求めるエピクロス派と大衆の喝采を求めるストア派を克服しようとする。
 この3つを批判する懐疑派は、こいつらは幸福の価値を対象に求めてるけど、心の構成と組織に求めなきゃいけない、そしてこの構成や組織は我々の選択には依存していない(理性だって限界あるだろ?)。かれらは幸福であるか否かは、追求する情念により、新に持続的な情念は人間の自然に基づいている場合のみ生じるとする。*5ただ、ヒュームはストア派に対してはそれほど強い批判はむけておらず、懐疑主義の篩いにかけられたストア派の思想を抱いていたみたいである。それはキケロの影響が強いんだろう
 キケロは極端な懐疑主義を否定し、「自然に即して生きることは最高の善であり、つまり自然に順応し、いわば自然のおきてに従って生きることである」とし、人は自然と調和しろ!と述べている。そして自然は習慣であると展開する、たとえば徳のありかたを「自然本性の在り方と理性に合致するところの精神の習慣」とし習慣を「精神あるいは身体の、ある完全で恒久的な完成態に存する」とストア派の強い影響が伺える。そして面白いのが、キケロは習慣としての自然を社会に対しても用いた―習慣は広い意味で作為に属するものであり、自然とは対立するものだ。まーそれが長い時間の中で自然化したってことですね、ただ固定的なものでなく社会変化に応じて変わり得るとし、自然概念を絶対化することはなかった。
 ヒュームにおいて習慣は設計されたものではなくundesigned繰り返される行為のことをさす。ただ習慣は究極的原因を与えるものでなく、変化し作為が関与している。習慣は自然の諸原理の一つに過ぎなく、習慣が発生する源泉は自然としているーー結局広すぎる!!!ただ習慣は意図的なものでもなく、理性は本能の一部とされる。・・・もうおしまいい!

*1:バトラーは目的論的神学と道徳哲学を適合性という概念を用いて結びつけた。これは、ある事柄Xがもつ特徴Cがφすることに適合的であるというのは、Cがφすることに役立つ、Cという特徴を持つXはCがφすることに役立つという事実によって説明される、そのような場合またはそのような場合のみであるという命題のことである

*2:自然と中世神学とかまなんで、新自由主義の発想がキリスト教的な「摂理」と深い関係にあることや、目的論的要素が働いていることが理解できる。つまり自然状態≒自由な場合であっても神は、幸福と完成を意図し世界を設計しており、そのようになるのであって余計な作為artは不要なのであるとされるのだろう、たぶん

*3:人の利己心などからどうして公共の福祉とかが発生するのかと考え、神の見えざる手によって、利己心による経済という手段が公共の幸福という真なる目的をもたらしたとしたのかなぁ?

*4:つまり決定論的であるのか…しかし、適切な場所に配置されるのは―配置されていると見なしているのが強いかな

*5:自然主義