シティズシップおよびシティズシップ教育に関して

シティズンシップについての考察


 この論文は今日のシティズンシップを明らかとすることを目的としている。それとともに、今日のシティズンシップ教育の意義とは何であるのかを考察する。
 はじめにブレア政権下でナショナル・カリキュラムとして実施されたイギリスのシティズンシップ教育と日本のいくつかのシティズンシップ教育について調べる。第2章では、シティズンシップ教育のより深い理解のためシティズンシップ概念や市民社会について調べる。第三章では今日のシティズンシップが抱える課題について調べ、第4章では新しいシティズンシップについて調べた。ここまでで既存のシティズンシップ概念は今日の社会状況に対応できなくなっており、多くの課題を抱えていることが明らかとなった。そしてそのことから今日のシティズンシップをめぐる議論では、既存のシティズンシップ概念を見直し、今日の社会状況に対応できる新しいシティズンシップ概念が要請され、それについて議論が展開されている。そして第五章では、新しいシティズンシップであるアクティブ・シティズンシップを構成する重大な要素である参加について調べた。
 本論を通して明らかとなったことは、シティズンシップは論争的な概念であり、これを定義するのは大変困難なことであると同時に問題を抱えることであった。今日の激しい社会変化の中でシティズンシップは常にその内容を問われ続かれなければならないと考える。
 ただ明らかとなったこともある。まずシティズンシップは構成員の地位身分であり、その帰属意識アイデンティティを指し示す。その構成員は市民的権利、政治的権利、社会的権利であると定義することはできるであろう。またシティズンシップはその権利とともに責任と義務がともなう概念でもある。
 以上のように定義されるシティズンシップ概念を論争的なものにしているのは伝統的には例えば権利と義務の内容やそのバランスをめぐる議論などである。しかし今日の新しいシティズンシップをめぐる議論において中心的役割を果たしているのが多様性の問題と国家の問題と参加の促進の三つである。そしてこの三つは分かちがたく結びついており、互いに別のものとして考えるものではなく関連して考えられるべきである。
 まず多様性をめぐる議論は移動の増大に領域内に多様性が増大した社会において、いかのこの多様性を包摂するかが問題となっていた。その方法として共通した政治的共同体への帰属意識や連帯感にそこへの参加の権利とともに生じる責任感から構成されるシティズンシップによる包摂が志向されていた。社会的統一の基礎にある主流の諸制度に参加させることによって、自由・民主主義体制が必要であるとみなす同じ共同体に属するという感覚と目的を共有するという感覚を、市民権という権利を付与することによって芽生えさせようとしていると考えられる。
しかしそれとともに共通の価値基板を秩序維持のために必要とするかどうかで対立があった。共通の文化や価値基板への帰属意識を批判する論者は、一つの文化への帰属意識はその他の文化を排除することになりえるとして危険視する。
これは国家とシティズンシップの問題に関わってくる。自由主義的なシティズンシップにおいて自由で民主的な国家は一つの民族一つの文化が市民に共有されていることによって成立する。しかし、この福祉国家においてマジョリティである文化とは異なる文化・価値観を持ったマイノリティは、その差異が故に排除される―社会の秩序を乱すものとみなされる。そしてこの文化の選択は―マジョリティに同化されるのを拒み、マイノリティであることを選んだこと、または自国文化を離れて自らがマイノリティになるのを選んだこと―自由主義の原則に則り、個人の自由な選択であるとみなされ尊重され、この排除は正当化される。
しかし、この個人の私的な選択とされる文化の選択は、文化的排除や抑圧を被ること以上に、政治的・社会的な排除に繋がる―排除を被る結果となる。それは政治的・社会的に包摂されるためにはひとつの文化を共有していること、主流文化に同化もしくは統合する必要があるからだ。以上のことから、一つの共有された文化を市民のアイデンティティとして必要とする、共通のアイデンティティ帰属意識を必要とする近代の国民国家と結びついた自由主義に基づく一元的なシティズンシップは批判される。
 国民とは民主的な討議以前の文化的ステータスであり、この事実によってマイノリティに関する課題は隠蔽されたり、マジョリティへの同化を強要されたりする効果もある。それ故に、シティズンシップを国民概念から引き離すことが要請されるのである。
 社会から排除されるのは今日では貧困はもちろんのこと文化的な差異によっても排除される。この文化的排除は、主流文化・文明から排除されるのみならず政治や社会からも排除されることに繋がる。それゆえにシティズンシップにおける多様性の包摂が今日の社会における課題とみなされるのである。
 この包摂を可能ならしめるものとして期待されるのが参加である。そしてこの参加をシティズンシップに導入したものがシティズンシップ教育の育成目標としても挙げられるアクティブ・シティズンシップである。
 多様性が増大する今日の社会においてT.H.マーシャルが労働者階級を包摂・統合したような社会権の付与という市民権の拡大だけでは、マイノリティを包摂し統合することは難しいと考えられる。また国民にだけ社会権を付与しても多様性の包摂と言った問題にはもはや対応できない。恐らく国民だけを包摂するシティズンシップは、今日の流動性や多様性が増大し複雑化している社会の秩序維持に対応できなくなってきている。
 そこでシティズンシップに期待されるのが参加による包摂である。この参加は地域のボランティアへの参加から直接的な政治行政過程への参加まであり、その内容をめぐって議論が展開されており、この参加もまた今日では論争的な概念であり、今日のシティズンシップがなにを志向しているのか分かりにくくしている一端であると考えられる。
 しかし主に自由民主主義国家と関連してシティズンシップにおける排除と多様性の包摂にかかわる参加に限って言えば、その参加とは政治共同体への参加、つまり政治参加のことを指す。市民の権利として政治へ参加することによって市民はその共同体への帰属意識を芽生えさせ連帯感を醸成し、市民としての責任と義務に自覚的になると期待される。もちろんこれは国家における政治共同体も含めるが、そこに限らず地域や国家連合における政治共同体への参加も含まれる。国民または市民という地位身分を超えて、シティズンシップは政治的実体などへの参加を志向することによって、より実体的な概念となるのである。これが新しいシティズンシップであり、アクティブなシティズンシップであるといえる。
 このように今日のシティズンシップは、今日の社会やシティズンシップが抱える問題克服のために―多様性の包摂やアイデンティティの獲得のため―自ら地域や政治共同体へ積極的に参加していくアクティブなシティズンシップが必要とされ期待されているのである。そしてこのようなアクティブなシティズンシップの育成を目指すのが今日注目されているシティズンシップ教育の意義であり目標であると考える。