市民と自立

 自立した理性的な市民による民主主義社会
 我々が現在生活をしている自由民主主義社会においては、自立した理性的な市民というような市民像が想定されている。
 そのような自立した市民が理性的に判断をすることによって社会は民主的によりよい方向へと進んでいくというポジティブでアファーマティブな想定と期待によって民主主義社会というものは幾らか成り立っているといえる。正直根拠は脆弱である。神やカリスマ統治者を求めたくなるのもうなずけるというものだ、民主主義社会はあまりに不安定であり、そういった超越的なものの希求が実装されているといっても過言ではない。
 しかし我々民主主義社会の市民は、そのような超越的なものに縋ることは過去に比べると許されてはいない。そう、我々市民は自律し自立なければならないのだ。逆説的に皮肉なことではあるが、それ故に理性的な市民が必要とされる。理性が信仰されるのである。そして理性的な市民を育て上げるための教育が必要とされるのである。
 
 何故このような市民と自立というテーマで語ろうと思ったのか。それは一つに今日の自民党安倍政権下において、今後は自立という言葉の存在感が増してくるであろうこと、twitterの私のTLでも市民と自立と教育について話題がチラホラ出てきていること、そして修士論文を書き終えて時間が経ち自分の論文とその結果と向き合える準備が出来上がってきたためである。

市民について

 市民とは何か、実はこれは論争的な概念である。往々にして市民とは即ち国民という市民=国民として語られる場合も多いとおもわれる。それは国民国家社会福祉などと密接なかかわり合いがありヘーゲルやらを参照する必要があるのだが今回の主題ではないのでまたの機会にしたい*1
 端的に言えば、市民とは市民権と政治的権利と社会的権利が国家などによって付与されている者であると定義できる。しかしこの権利が論争を巻き起こす種となる。
 またフォークスによれば市民の市民性とは「構成員資格にかんする地位である。その地位と権利、義務そして責任を一体として含むとともに平等、正義そして自律(自治)をも意味する」。つまり市民となるには資格が必要とされるのである。
 それでは市民になるための資格とは何であろうか。その1つは教育されることである。市民とは生まれながらにして市民ではなく、教育を施されることによって市民となるという思想が確実にある。このことから子どもたちには、また移民には義務と権利として教育が必要とみなされるのである*2

まず簡単なまとめとして、市民とは構成員であり、市民には市民的権利・政治的権利・社会的権利が付与されており、市民となるには資格が必要とされるものであると定義しておこう。

 そう市民とは生まれながらにして市民であるわけではない、市民とは市民となるものなのである。また過去において市民と国民とは同じものではなかった。それは例えば英国のジェントルであった。そしてその市民階級の下には文明化されていない労働者階級があったといえる。この労働者階級を国民=市民へと包摂する必要が19世紀や20世紀の英国を始めとする国民国家にはあった*3。その包摂のために、英国の文明的なものに触れられる、分け与えられる権利として、労働者のCvilized(文明化)の必要性が認識され、労働者を教育と福祉によって文明化しジェントル≒市民とすることが求められるようになったのである。
 そして労働者も市民とみなされるようになって市民=国民という関係性がより現実的なものとして築き上げられたと考えられる。余談だがジェントルとは全ての教養を兼ね備えた者のことである。今日リベラルアーツに注目が集まっているのもこういった歴史がある故にであろうと考えられる。

市民と自立

 さて、以上を踏まえた上で市民と自立について述べてみよう。色々とまだ書きたいところを端折ったのだが長くなったり論点が乱れてしまうので突入することにしたい。
 市民またはシティズンシップにおける自立とは詰まるところ自由であることと言える。市民的自由とは、国家に対する個人を保護する法と、個々人がもつ自然権を市民権として国家が保証することを要請する。
 この自由を守るために社会権が登場した。T.H.マーシャルは貧困が市民の自立や自由を、そして政治参加を阻害するとして、市民的自由拡大のためにも社会権を市民へと付与し、市民をより国家へ包摂することを目指したのであった。
 そうした市民的自由のカウンターとして、国家は過度に市民に干渉すべきではない、過度な干渉は市民の自律と自由を奪い不完全な市民を生むことになる。また勤勉な市民によって生産された財を、勤勉でない市民に対して分配することは、義務の軽視であり不道徳であると市民的自由を捉える自由主義者たちもいる。
 また自由主義といっても、市民的自由と自立、そして間接民主主義国家においては、理性的な自立した市民による權力の管理や監視が必要とされ、政治に関する不関心はゆるされないという立場から自立した市民というフレーズを用いる方もいる*4。この手の自由主義は、市民としての品格や徳として、必要最小限の教養として上記のようなリテラシーを要請する。
 初めにも触れたが、民主主義社会には絶対に理性的な自立した中庸な市民が要請される。そういった存在が期待されており、そうした理想的な市民を育てるために教育と学校が国家やコミュニティには用意されている。ある意味ではこの市民的自由とは、市民が国家に対して積極的に影響を与える手段が確保されていることと解することもできるだろう。この点では自由主義と共和主義は手を取り合えると私は考えている*5

 事実、共和主義的シティズンシップもそれを要請している。共和主義の考える市民的徳の1つに、政治的な判断・参加があげられる。つまり共和主義においても、市民には高い知識や技術が要請され、そのための教育の必要性が認識されるのである。

まとめ

 つまり強引にまとめると市民における自立とは即ち自由のことであり、経済的な自立や国家からの自立なども含まれるが、その自立のためには教育が求められるのである。教育に期待がかかるのである。
 自由主義であっても共和主義であっても市民には教育が必要であり、教養と理性を備えた自立した市民となることが要請されているのである。
  
 市民における自由と自立、そして教育は常に緊張関係にあり、一方の天秤に偏ってしまうと自由も自立も縮小してしまうおそれがある。そうした危険性を抱えながらも民主主義社会を維持していくためには、結局のところ理性的な市民が必要であり、自立と統治のための教育が絶対に必要とされるのである。


あとがき

最後に私的には、市民が自由になるためには、ある程度の不平等の解消が絶対的に必要であると考える。市民が自立し自己統治し自由であらなかればならないという理念を掲げるのであれば社会福祉から締め出すこと、経済・社会から排除するのではなく、反対に社会と経済、そして文化に包摂していくことが求められるのではないだろうか。
またブログということもあり、かなり独断的に臆さず書いた。

*1:『市民権の哲学』や『市民社会とは何か』などが取っ掛かりによいかもしれない

*2:一昔前は当然とみなされていたこの思想も今日は問題としてとりあげられるようになっている

*3:例えば生産力の向上や愛国心の向上

*4:キムリッカ

*5:しかしその一方で共和主義的は市民の徳とは利他性、コミュニティや全体への義務などがあげられる。この性格故に自由主義と共和主義は手を取り合えないのだ。