「国民負担はあたりまえ」に対する批判

 Chikirin氏の「2011-05-15」を読んでいて、どうしても受け入れがたい記述があったので一言。


 端的にいってしまえば氏の「原発を利用しながら、豊富な電力を得て利便性の高い社会を作ろうとしていたのは、まさに日本の国民(有権者)の民主的な意思決定の結果だった」のであり「その意思決定に伴う損害を、今は福島県の人が一身に背負わされているのだから、その補償のために東電の資産で足りない分を国民全員で負担するのは当然だと思います。」という一説は、あまりに一方的な理解であり暴力的なのではないかという立場からの批判になります。

 原発政策に有権者は賛同し、その利益を享受してきたという部分は妥当だとしても、十分な対策がなされていなかったことによる責任まで有権者の責任に帰属させることができるのでしょうか。想定できる最悪な状況に対する対策をしない、という電力会社の決定の責任を有権者に部分的にでも帰属させることは可能でしょうか。今回の原発事故を巡る政治的な問題には、誰に責任を帰属させるのか、誰が被害者なのか一方的に決定できないという困難があります。その困難を、ちきりん氏は排除してしまっているのです。

 福島原発事故は人災であったか天災であったかで一時期揉めていたのは記憶に新しいでしょう。これは原発事故の責任が誰にあったのか、という戦略的なコミュニケーションを分かりやすく表しています。想定外な天災であったならば、政府や東京電力に責任は一切無く、犬に噛まれたと思って諦めろと言ってしまえます。しかし、これが想定可能であったにも関わらず、予防を怠った―もしくは危険性を知りながらも利益のためにリスクある選択をしたことによって発生した事態であるならば、問題はシンプルに片付けられなくなります。
 なぜならば、ある者たちは危険を省みず利益を求めて選択したのだから、その選択によって発生した損害の責任は、その決定者に帰属することになるからです。
 今回の福島原発事故は人災の面が強い、というのが今回の政治的な流れとみることができます。これによって、それでは誰が根本的な責任者なのかといった疑問が噴出してきます*1。しかし、それ以上に「どの決定が今回の事態を招く原因となったのか」という、(リスクある)決定を巡る問題こそが今日のコンフリクトな状況を招いている一因だと考えられます。

 今回批判の対象とするブログにおいては政府や東電の責任を認めながらも「国民(有権者)の民主的な意思決定」に、責任を帰属させようという政治的な戦略が見受けられます。
 つまり、利益を求めてリスクある選択をしたのは究極のところ有権者であり、その選択によって発生した損害保障を―東電が賄えない分は―国民が負担するのは当然だ、ということです。
 しかしこれはあまりに暴力的すぎというか大雑把すぎるのではないでしょうか。ちきりん氏は原発政策と福島原発(事業?)を同一視してしまっているのではないでしょうか。

 このブログが分り易いのは一番困難な「福島原発事故のを招いた決定の責任は誰にあるのか」という政治的な問題を一方的に切り捨てているからでしょう。彼の議論では、自己は天災だったから諦めて納得しろ、と言っていることは変わらなくなってしまいます。彼は原発政策に賛同したというかなり曖昧で大きな決定と、福島原発事故を招いた決定という限定的な決定を同一視しています。
 今回の事故が天災でないならば、今回の地震地震の多い我が国において想定できたものである。つまり十分な対策は可能であった、ということになる。しかし、その十分な対策が施されていなかった故に、ここまで大きな被害にまで発展することになってしまった、ということができるでしょう。
 事故の原因を対策の不備に帰属させるならば、責任は利益のため地震津波対策を怠った東電にあるといえることになります*2
 つまり福島原発事故の責任は、国の原発政策を支持した(放置していた)有権者にあるのではなく、対策をしっかりしていなかった東電に一方的にある、という展開も十分可能となってしまうのです。

 ちきりん氏が想定しているように、福島原発事故の責任を原発政策に賛成という政治的な選択に帰属させることも可能です。しかし一方で、福島原発事故の責任は十分な対策をしていなかった東電の決定に帰属させることもまた可能なのです。こうした責任の帰属をめぐる困難があり、社会が不安定になっているというのに「国民(有権者)の民主的な意思決定」にも責任がある等と言い切ってしまうのは、あまりに安易であり危険だといいたいのです。神の一声によって責任者を決め付けられれば、政治や法なんてほとんど必要なくなってしまいます。責任のなすりつけあいという多くの人々の利害が関係しているが故に汚く困難である問題を排除してしまえれなら、為すべきことが明らかになってくるのは当然かもしれませんね。


 今日のリスク問題において、誰が責任者であったのかは戦略的なコミュニケーションによって、かなりの程度変更可能です。そして人々が、リスクに満ちていた他者の行動の犠牲となりうるような状況を拒否しようとするのは大変合理的だと考えられます。人々が原発という選択にたいして責任を回避したいと考えるのは当然です。にも関わらず、国民にも責任はあったと一方的に議論を進めるのはあまりに暴力的であり、国民負担はあたりまえと言ってしまえるのでしょうか。
 原発が推進されていた時代に、発電力についてある程度の自由な選択が可能であったと見なすことが出来るのならば、国民に責任を追求することは可能でしょう。しかし原発は安価で安全であったと教えられてきたと反発されたらどうなるでしょうか、電力の自由化は可能であったと反発されたらどうなるでしょうか。人々は責任を回避し、政治的手段訴えかける権利は絶対的に保障されています。政治や科学や東電に対する信頼は低下し、社会不安は増大する一方です。
 このような事態にあって冷静になって目の前の問題に取り組んで安定を目指すのがいいのか。情熱を持って大きな構造的問題に取り組み改革を目指すのがいいのか、どちらが適切であるのでしょうか 

*1:政治なのか自民党民主党か官僚組織か東京電力か科学かなど

*2:東電が対策予算をケチッたのか別の会社なのか調べていませんすみません