教育とはなんだろう エッセイ

 教育とはなんだろう。今はそうでもないが一時期色々と騒がれていたし、今後社会が安定してもしなくても教育に関心が払われない事態が訪れるとは考えづらい。

 ネガティブな見方すれば教育(過程)とは価値や階層の再生産装置であったり、自由すぎて制御できない個人を制御しやすくする為に平凡なマシーン化を進める機関など言われたりもする。
 しかしこう言った批判は適切ではないだろう。なぜならば、教育課程・学校でなくとも社会化・階層の再生産・価値観の固定化は職場や地域コミュニティや家庭内でも十分見られる。国家による教育だからこそ国家に都合の良いと思われる社会化・マシーン化が為される、という事実もないわけではないだろうが、国家による社会化と家庭や地域コミュニティによる社会化に善悪の差などあるのだろうか。前者は恣意的な社会化であり自然ではないが、後者は人間にとって本質的だ、などと反論する方もいるだろうが、私にはどちらが自然で本質的なのか判断することはできそうにない。

 教育とは何か、この問いに対して余す所無く答えるのは無理だが、ネットなどの情報技術が発達したことによってその答えは変わってきているように私的には感じられる。

 今までの教育の主な役割とは、小学校から大学に到るまで一貫して知を与えること場であり、自らが蓄積した知を教授することであると思う。しかし今回の原発問題では、学校という場を通してではないが専門的な知が公開・発信された。直接的な教授ではないが、この知の公開によって、我々は何が起こっているのかを知り、自らで判断するための知を得ることができた。途方にくれず、選択するための知識を得る機会を提供してくれた。
 危機的な状況であるに関わらず、過度な情報公開はいたずらに不安と混乱を招くものだという定型句があるが、原発問題に関する様々な情報提供は逆に我々を自由にしたのではないか。私はそう感じる。

 これからの教育は、知の教授だけではなく、知を広く公開しあらゆる人が自由に知に接続できる場や機会を提供するという役割が増大していくのではないか。
 これからの学校は自らが構築し蓄積してきた知を独占し、それによって権威を得るのではなく。自らが蓄積した適切な情報を公開していくことによって、公的な役割を果たす機関となっていくべきではないか。


 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」ルーマン『社会の教育システム』

社会の教育システム

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