メモ 社会の教育システム

社会の教育システム


社会化は、持続的な不確かさの状態にある人生に向けて備えるものでなければならず、どのように行為するか検討のつかない人間というものについて行われる。57
 「社会化は振る舞いの自然的な、そして社会的な条件を自明のこととして伝達する。しかし別の人々が問題なしとしない例が経験されるにつれて、そうした伝達は社会システムに困難と紛糾をもたらす」62社会科は行為と模倣によって行われる一方教育はコミュニケーションに依存するゆえに社会的プロセスである。
 教育とは、教育する意図をシンボルとし、その限りにおいて意図なき教育である社会化は教育から排除されるべきものであることが鮮明となる。63,66,69も面白い
 シティズンシップ教育を導入するとして、その評価をどうするのか、どのように評価することを教育や教師に課すのか、その選別は―というのは重要な議題になるである。善き糸による教育であっても選別プロセスから逃れられず、決定であることを顕にする、負い目となる。そのこと、それ自体をシティ教育に再入させるのは教育として善いかもしれないのでは。
 教育と選別の区別を知るには、教育と社会化の区別が手がかりとなる。
「出自による社会的統合から、キャリヤ(未来)による社会的統合」個人と社会との統合(相互的制約)は選別の連鎖に道を譲った。83
 「教育は正しいが平凡化をもたらす。しかしそれはネガティブなことではなく、一定のインプットに対して一定のアウトプットをもたらす信頼できるマシーンなのだ。」92これは恐らく社会の正当な利益となる。むしろ、個人は平凡でないシステムであるが、社会とのコミュニケーション、教育の過程を経て平凡なシステムとして振舞うことが有利であるとしるのである。94
 「教育システムにおける社会化とは、いわゆる裏のカリキュラムについての主題である」95
「問題は、学校の授業を受けることが社会化に役立つという効果をもつとして、それは批判者が言うような現状肯定的・機能主義的効果に尽きるのか、ということである。」「平凡でないシステムが、時には平凡であるかのように振舞うことができ、しかも平凡なシステムになりきってしまわないことを、どのように学べるのか、ということであろう。」 「教育は他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる。」97

 「子ども(未完成の子供)が教育の媒質である【教育という機能は教育の中間物である子供に何らかの形式を備えさせることによって実現する。】」しかし、その子供は何でも制御できるものではなく、既に具体的な個人でもある。ただ「教育者は、この媒質の可能性、その子において未了にとどまっている実現の形式を選ぶ可能性に望みをつなぐ」117 個人は内部で不定性を生み出し、それを自分の未来の不確かさとして押し出す。そうした不定に形式を求める。
 この媒質は子供から経歴へと置き換えられた120 経歴という媒質は書き換え可能性、とりわけ矛盾を除去する可能性を与えてくれる。自ら生み出した不確かさは、外部の指示によって収拾されてはならない、その点で小説は自分自身を説明する見本なのである124 「色々な形式を求めていく媒質としての経歴」

「教育する意図は、余剰性及び可変性に向けられているのである」128―知識は反復利用の可能性、すなわち余剰性と、変化と新機軸と意外性をもたらす。
 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」129

教育は生き方を管理することなど要求できない、それは全体主義的な教育になってしまう。


「他人は何を合理的だと思うのか検討がつかない状況におかれている人々の扱い方についての構図を示せないほど―極端に複雑化した社会」199これは合理性の欠如などではない。―「合理性の問題に取り組むのではなく、社会全体の解明を目指したためにあまりにも一般的になってしまった基準を最特殊化する可能性はないかと問うてみるのがよい。合理性についての判断は、基準を最特殊化する仕組みに属するか否かの判断だということになる。そうした仕組みは組織とプロフェッションである。」

教育のシンボルである今後の経歴に役立つことを教えるというのはあまりに一般的すぎて、中身がない。この空白を満たすのが、理念と実践の区別である。「組織による理念的制御という(空想的な)観念があり、他方で、システムの特別の機能とその社会的重要性を表現するものである諸価値を尊重せよという一種の制度的なプロフェッション化による義務付けがある」

 全社会的な合理性を見出そうとして一般的なありふれたものになって、どうしようもなくなる。そうではなく機能分化した社会においてはシステムの合理性を求めるのが適当であり。合理性の最特殊化をする仕組みとして組織とプロフェッションがあげられる。
 学校が国家のアンシュタルトという形を取ることを背景として教育者はどのように強制を自由へと変換するのか―アンシュタルトとは一般的な国家権力の枠を超えて利用メンバーを自己の規律に服させる特別権力の施設である。
 プロフェッションが、病気を健康へ、無教養を教養へと媒介する役目を果たす。205
プロフェッションによってクライアントの人格は変化する、専門化にはその差異化する権能が与えられている。(過言だとはおもうが、シティズンシップ教育によって、市民であることが学校教育の教師の判断に委ねられるかもしれない)
ルーマンが言うには教育ほど成功するか失敗するか不確かなものもないが、「教育がそれでもやっていけているのは、成功を自分の手柄にし、失敗をクライエントの特殊性のせいにするからである」という。しかし昨今の教育を巡る批判などを見ると、教育それ自体の失敗への言及も増えているのではないか。モンペなどもそういった一種なのではと思ったりもしている。

プロフェッションによる、または組織による最特殊化の問題にまで到達すると、善き意図とか、救いようのない出来上がっていない若者たちとかいった一般的なシンボルによる表現は、崩れ去ってしまう223

(今日でも、悪を特定するのは難しくないが、何が善であるかを特定するのは困難になっている。だから今日では、共通善よりも共通悪がコミュニケーションの主題となりやすいのだろう)
(教育は社会的に見れば選別過程なのだけれど、教育自身はその選別を拒否する。その齟齬は経済が低迷し就活が激化することによって、以前より先鋭化というか見え易くなっている。必ずしも社会経済のための道具として教育があるのではない、職業教育も階層による統制の拒否によって価値を失っていった)
「教育への支出は、政治的成果のシンボルとなる。258」(保守党を乗り越えた成果としてのシティズンシップ教育!!)
「極端な個人主義の一定の修正を目指す―「客観精神」が独自の歴史として個人に対置され、」261(個人化による不安定性に憂慮した結果としてのシティズンシップ教育)
 「状況が変われば同じ振る舞いが通用しないのに、振る舞いの規則集として道徳を学習させ得る」なんて考えているのだろうか。264 確実性の喪失への対応
 カリキュラムが変わるたび、何が教育の本質なのか薄れていき遂には啓発の解体へとなっていった267
「ある者にとっての解放は、ある者にとっての不安である」「主体との関連だけを取り上げることをやめて社会的次元をも願慮するならば、直ちに、自由を求める市民的プログラムの長短両面が顕在化する。」「自由を認めるとは、事由の用い方の固定を断念するということだから〜どのように用いられるかを他人は知りえないとういことである。」269
 「教育学も不安を伴わずして解放は達成されないということを告白せざるをえないであろう」「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」270

 

 シティズンシップ教育の観察は、そのプログラミン、開放的か安定志向かの観察をメインにするのではないだろう。英国シティズンシップ教育の内情と、その日本における受容や解釈、また用いられ方を明らかにするのは無益ではなくとも、根本的な問いにはならない。そういった比較を通して明らかになった差異いじょうに、不確かさに対抗するための〜教育という認識のほうが有益かもしれない。