エコロジー論を読んだりしてのシティズンシップ教育の雑多なメモ

不安への対処法として理性的な人間を目指す啓蒙という目的をもつものがシティズンシップ教育といえるかもしれない。
その際の不安とはプログラムの部分であり、たとえば移民の増大や治安の悪化、政治への不参加、コミュニティ機能の低下といった様々な不安に対処できることを期待されていると考えられる。では、そのコードは何か。シティズンシップ教育もまた教育であるゆえに選別というバイナリコードを適用されるだろう。そらに道徳の尊敬/軽蔑というコードもまた顔を覗かせるのではないかと考えられる。教育と道徳のコードによってシティズンシップ教育は子供たちを良き市民であるか/ないか、という選別をおこなうことが可能となってしまう。これは道徳というコードによって観察されてしまう弊害である。その弊害を取り除くのは容易ではないだろう。シティズンシップ教育は政治経済社会といった異なるシステムからの要請に晒され期待されており、教育という点においてどうしても選別を行わないわけにはいかない。つまりシティズンシップ教育は市民的であるか/ないかとった包摂と排除を最初からふくんでいる。それは是非もないことであろう、しかしだからといってこの観点を無視することもまた許されるとは考えがたい。こうした選別が行われることによって、どんな利益や弊害が発生するかは、また別に問われなければならない問題だとしても、ここで論じようとしている内容ではない。またシティズンシップ教育で良い成績を上がられなかったからと言って社会から排除されるのではないか、などとこれから言うつもりもない。
 教育の目的と機能が人間の改革であり、社会や政治によって要請された人間を形成する必要に迫られることは当然のことである―勿論教育は教育の理想に基づくことも可能である。この差異はシティズンシップ教育の在り方にも出ている。たとえば品川と御茶ノ水では云々、このように学習されるべき内容が異なることから選別という目的を達成できるとは考えがたい。

 シティズンシップ教育は、市民意識を醸成させることを目的とするが、さらなる目的として社会を改善するよりよい民主主義といったことを目指していると考えられる。しかしルーマンが私的する通り意識と社会には隔たりがあり、この意識と社会の差異はコミュニケーションのテーマとなる。62

十分に市民的である/十分に市民的ではない、という選別はエリート主義貴族主義といった結果を招くかもしれない、または過去の教養主義に近いものとなるかもしれない。ただ、コードの時点では基準をもうけることはできない。たとえば非真理が真理よりも科学的な発展をもたらしたり、所有しないほうが所有しているときより収益をもたらすかもしれない78。 コードと適切な作動のための基準との差異は、同じシステム内での閉鎖性と開放性を結合する。コードとプログラムの分化は排除された第三項のシステムへの再導入を可能にする。
 コード化の次元と、適切な作動の条件を定め、場合によっては変更が行われる次元との区別が必要である。そしてプログラムとは、いかなる作動が選択することが適切であるかを定める、前もって与えられた条件である。87要求の具体化であり可変的でありつづけなければならない。コードとプログラムの分化によって、環境によりひこ起こされた危機に社会がどのように共鳴しうるのかという問題の鍵を担う。
 一つのシステムが強権的になろうとも、他のシステムとの依存関係にあるかぎり暴走は失敗しやすくなっているのだろう。95つまりそのために、共鳴は制約される。また共鳴は既に構造化されており

政治は常に学術や教育に期待していると言えるだろう。このような期待はどのようにして発生しているのかを確認することは決して無益とならないだろう
 政治的な選択が、社会全体に対して効果があったのかが分かるには相応の時間が必要だと思う。たとえば「ゆとり教育」なんかは本当に効果があったのかどうか分からない内に不況による経済の低迷は「ゆとりのせい」みたいなトンデモ論が出てきて、すぐに消えてなくなってしまった。専門システムへの信頼が低下し不安が増大すると、時間の猶予を市民が認めなくなってしまう。そうすると効果が出るかでないか分からないうちに政策などがコロコロとかわり支障をきたすように成るかもしれない。
 シティズンシップ教育はもちろん問題の解決を求められているのだろうが、同時に問題の増殖・発見をもたらす。市民性は恐らく解決された市民的な問題から新しい市民的な問題を追求するだろう。それに対して政治や経済は反応せざるをえないだろう。

 チャールズテイラーは近代によって自由になった個人の存在の不安さを、共同体や全体に繋がることで本物になることで克服しようと試みた。こうした共同体志向、コミュニティや地域への志向また、パーソンズの価値規範への志向はシティズンシップ教育の目的にも見出すことが出来る。
 さらに先ほど示した中道左派的なシティズンシップ教育や保守的な市民性教育どちらにあっても、こうした志向を見て取ることが出来、シティズンシップ教育にその期待をかけている。

個人化を嘆くものがいるが、恐らくこの個人化は止められない保守や共和主義者が求める理想はたとえ叶えられたとしても醜く歪な形態をとるのではないか。もはや拠り所は常に変更可能であり、自分自身を自分自身で支えることを悲劇的にも強制される世界に我々は生きているのだから
 大きな物語の喪失などで語れる学術的世界観を社会や経済が受け入れるかといったら、その補償や根拠みたいなものはどこにもない。今回の原発における学術的真理が解明されたとしても、それを人々が受け入れるとは限らないし、それを愚かだと言ったところでたいした意味はない。
 今現在社会が置かれている問題にたいして政治が期待されているうちの僅かなことしかできないからこそ、政権交代が頻繁に行われているのではないか。政治が社会の中心であり政治が様々な問題を解決するという昔ながらの思想が行き詰まっている証左ではないか*1

あまりに短絡的に行ってしまえば、社会の連帯や統合の維持のために特定の秩序ある認知体系を共有させることを目的とした教育―または分化システムにおける特定の価値体系が制度化され個人に内面化され社会システムにおける均衡のため―ともとれるのだが、教育一般にこの手の発言は当てはまるだろう。

システム理論と教育学

 主体性とシステム合理性、人が主体的に行為しているなんて日常ではほとんどありえないんじゃないか。システムのコードに引っ張られているというか、それによってどちらかを選ぶことを既に強制されている、つまり能動的に選択しているかもしれないが主体的とは言いがたいのでは。教育は個人の特性の発揮・育成という教育自身の目的いがいに、社会においては社会の様々なシステムに関わることへの準備という機能が期待される。ルーマンの教育における認識で注目しておきたいのが近代の教育の特徴とそれ以外との差別化であるとういか、社会化と教育を対比的に把握している。部分的な一部システムへの包摂ではなく、個人は
流動化しており階層的秩序は前近代に比べ破綻しており、教育はこうした社会に不確定である―依存している。全てのシステムは全体社会と部分システムと自分自身とに関わっている―機能・作用・反省
 教育はリベラル・エデュケーションと職業教育の間を揺れ動く。しかし教育システムの機能は未来への社会システムのための適切な環境であると同時に、個人の社会化である。30
bildung人間形成という人間主義的伝統は教育学の逃げ道となっている。
 
福祉国家の限界
福祉国家内において政治は多くの欲求をたとえ実現が難しくとも引受ざるを得ない、そしてそれらの要求を実現するために何かを実行することを政治は官僚機構に任せなければならない、そして官僚はその実現のためという正当性をもって財源を自由に処理できる―実現できるかできないかに関わらずに.
市民による無茶な要求を実現しようと政治が官僚に働きかけることによって、官僚制は予算の獲得と官僚制の拡大を叶えることができてしまう。ここで市民を愚かだというのは簡単だし、官僚にたよるのま間違いだというのも簡単だ、適切ではない

システムにおいて何が可能で、可能でないかを認識する 

社会の教育システム

 全社会的な合理性を見出そうとして一般的なありふれたものになって、どうしようもなくなる。そうではなく機能分化した社会においてはシステムの合理性を求めるのが適当であり。合理性の最特殊化をする仕組みとして組織とプロフェッションがあげられる。
 学校が国家のアンシュタルトという形を取ることを背景として教育者はどのように強制を自由へと変換するのか―アンシュタルトとは一般的な国家権力の枠を超えて利用メンバーを自己の規律に服させる特別権力の施設である。
 プロフェッションが、病気を健康へ、無教養を教養へと媒介する役目を果たす。205
プロフェッションによってクライアントの人格は変化する、専門化にはその差異化する権能が与えられている。(過言だとはおもうが、シティズンシップ教育によって、市民であることが学校教育の教師の判断に委ねられるかもしれない)
ルーマンが言うには教育ほど成功するか失敗するか不確かなものもないが、「教育がそれでもやっていけているのは、成功を自分の手柄にし、失敗をクライエントの特殊性のせいにするからである」という。しかし昨今の教育を巡る批判などを見ると、教育それ自体の失敗への言及も増えているのではないか。モンペなどもそういった一種なのではと思ったりもしている。

プロフェッションによる、または組織による最特殊化の問題にまで到達すると、善き意図とか、救いようのない出来上がっていない若者たちとかいった一般的なシンボルによる表現は、崩れ去ってしまう223

(今日でも、悪を特定するのは難しくないが、何が善であるかを特定するのは困難になっている。だから今日では、共通善よりも共通悪がコミュニケーションの主題となりやすいのだろう)
(教育は社会的に見れば選別過程なのだけれど、教育自身はその選別を拒否する。その齟齬は経済が低迷し就活が激化することによって、以前より先鋭化というか見え易くなっている。必ずしも社会経済のための道具として教育があるのではない、職業教育も階層による統制の拒否によって価値を失っていった)
「教育への支出は、政治的成果のシンボルとなる。258」(保守党を乗り越えた成果としてのシティズンシップ教育!!)
「極端な個人主義の一定の修正を目指す―「客観精神」が独自の歴史として個人に対置され、」261(個人化による不安定性に憂慮した結果としてのシティズンシップ教育)
 「状況が変われば同じ振る舞いが通用しないのに、振る舞いの規則集として道徳を学習させ得る」なんて考えているのだろうか。264 確実性の喪失への対応
 カリキュラムが変わるたび、何が教育の本質なのか薄れていき遂には啓発の解体へとなっていった267
「ある者にとっての解放は、ある者にとっての不安である」「主体との関連だけを取り上げることをやめて社会的次元をも願慮するならば、直ちに、自由を求める市民的プログラムの長短両面が顕在化する。」「自由を認めるとは、事由の用い方の固定を断念するということだから〜どのように用いられるかを他人は知りえないとういことである。」269
 「教育学も不安を伴わずして解放は達成されないということを告白せざるをえないであろう」「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」270

 社会化は、持続的な不確かさの状態にある人生に向けて備えるものでなければならず、どのように行為するか検討のつかない人間というものについて行われる。57
 「社会化は振る舞いの自然的な、そして社会的な条件を自明のこととして伝達する。しかし別の人々が問題なしとしない例が経験されるにつれて、そうした伝達は社会システムに困難と紛糾をもたらす」62社会科は行為と模倣によって行われる一方教育はコミュニケーションに依存するゆえに社会的プロセスである。
 教育とは、教育する意図をシンボルとし、その限りにおいて意図なき教育である社会化は教育から排除されるべきものであることが鮮明となる。63,66,69も面白い
 シティズンシップ教育を導入するとして、その評価をどうするのか、どのように評価することを教育や教師に課すのか、その選別は―というのは重要な議題になるである。善き糸による教育であっても選別プロセスから逃れられず、決定であることを顕にする、負い目となる。そのこと、それ自体をシティ教育に再入させるのは教育として善いかもしれないのでは。
 教育と選別の区別を知るには、教育と社会化の区別が手がかりとなる。
「出自による社会的統合から、キャリヤ(未来)による社会的統合」個人と社会との統合(相互的制約)は選別の連鎖に道を譲った。83
 「教育は正しいが平凡化をもたらす。しかしそれはネガティブなことではなく、一定のインプットに対して一定のアウトプットをもたらす信頼できるマシーンなのだ。」92これは恐らく社会の正当な利益となる。むしろ、個人は平凡でないシステムであるが、社会とのコミュニケーション、教育の過程を経て平凡なシステムとして振舞うことが有利であるとしるのである。94
 「教育システムにおける社会化とは、いわゆる裏のカリキュラムについての主題である」95
「問題は、学校の授業を受けることが社会化に役立つという効果をもつとして、それは批判者が言うような現状肯定的・機能主義的効果に尽きるのか、ということである。」「平凡でないシステムが、時には平凡であるかのように振舞うことができ、しかも平凡なシステムになりきってしまわないことを、どのように学べるのか、ということであろう。」 「教育は他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる。」97

「教育する意図は、余剰性及び可変性に向けられているのである」128―知識は反復利用の可能性、すなわち余剰性と、変化と新機軸と意外性をもたらす。
 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」129

教育は生き方を管理することなど要求できない、それは全体主義的な教育になってしまう。

 シティズンシップ教育の観察は、そのプログラミン、開放的か安定志向かの観察をメインにするのではないだろう。英国シティズンシップ教育の内情と、その日本における受容や解釈、また用いられ方を明らかにするのは無益ではなくとも、根本的な問いにはならない。そういった比較を通して明らかになった差異いじょうに、不確かさに対抗するための〜教育という認識のほうが有益かもしれない。

*1:学術をよんで