民主主義と市民性に関してのメモ―議会制民主主義の形骸化などを中心に

 議会制民主主義は今日でこそ一般的であるが、そもそも議会制と民主主義は同一なものではないし親和性も普遍的なものではない。議会制は近代以前においても存在していた、ただその議会は等族議会と呼ばれ、貴族・市民(ブルジョワ)・僧侶といった身分を代表するもの達の集団であり国王の諮問機関的なものであった。これが市民革命などを経て―国民代表の原理と多数決の原理の採用によって今日のような議会制民主主義が誕生した。それ以前の議会は貴族主義的であり、利害の担い手が今日よりも多様でなかったために同質性を確保しやすかったと言われている。しかし、それが国民全体となることによって政治の担い手は市民から大衆へと変わり、数のみならず質が変化し同質性は失われ社会における利害対決は激化、もはや国民的利益と呼べるものは見いだせなくなり、議会もまた統合機能や代表機能が低下し形骸化していった、といわれる。
 では貴族性に戻せばいい、などという方もいるだろう。言い過ぎであるがそれに近いのが保守派であると私も妄想している。それに対抗するものとして大衆の啓蒙や大衆の市民化を求める者たちもおり、かのトクヴィル*1やミルも民主主義における数の暴力を危惧し中等教育までの義務化などを説いていた。大衆は啓蒙される必要があると、彼らは認識していたのだろう―それはなんのためにであろうか、それはひとまずおいておこう。
 大衆と市民の区別は政治・社会・教育を語る上で無視することはできないだろう。たとえば、大衆社会における民主主義における問題点として、トクヴィル民主化が進むと人は他人と同じ思想・行動・生活様式をとり画一化の中で生きる。そこで権威は貴族主義による理性ではなく、大衆による匿名の世論となる。民主化した社会ではこの匿名の世論という権威にしがみつき支配される、多数の専制に陥る。これに対し彼は自由主義を民主主義に導入し自由と平等の両立を主張し、少数の権利の侵害の危険性を緩和しようとした。

 市民は教養と財産をも理性的な人々とされるが、大衆は多様な利害をもち非合理的で情緒的な特徴を持つ。ただこの分類が正しく妥当ものと考えるかどうかは別であるが、市民という発想には主知主義的すぎる向きがあるだろう。主知主義批判といえばリップマンである。人間は合理的判断に基づき―自分の利害や目的を明確に認識し、その実現のため合理的な判断を下す、もちろん選挙においても相応し代表を選出するという発想を批判し、理性的・合理的ではなく人は衝動的で本能的あるとした。彼は非合理的な人間を前提とした民主主義メカニズムを示しステレオタイプという概念を提出した。

 話は脱線してしまうが、このような主知主義はいまなお根強く、また大衆の一部と化した教養ある市民を大衆と区別したがる選民思想的な者もいるだろう。これはまあ極端な話だが、民主主義実現のために大衆は教化され理性的にならなければならないという発想は自由主義共和主義ともに見受けられる―それが今日におけるシティズンシップや市民社会に期待する流れの大本になっているのではないだろうか。
 
 大衆化社会にともなう多様性の増大によって、それらを処理する知識・技術への需要が増大し行政への依存度が増大し行政国家化し、議会の地位や機能は低下していった。そして行政国家化とともに政党の寡頭制化・官僚制化し民衆と政党の距離が遠くなり、民意吸収という機能も形骸化し議会は空洞化するようになる。*2
このような議会の形骸化・空洞化は今日の政治課題である。こういった課題に対して、その責任の一旦を市民・民衆へと求めるのがシティズンシップへの関心の増大であるとも、残念ながら考えられる。もちろんこれだけが要因ではないのだが、政治に対する関心の低下*3、地域コミュニティとの繋がりの希薄化、また「若者はおとなになれない」などといった関心が決して小さくはない部分を占めているのは事実であろう。従来の民主主義化観として、自律した個人が責任を持ち選挙で票を投じた結果、選出された議員が理性的に討議し国民的利益の具体化にとりくみ合意を形成する、という理念がある。こうした議会制の原理をになっていたのは教養ある市民であり、理性に基づき人間は行動するという主知主義であった。
 実際、近代の市民≒ブルジョワが理性的であったかは疑問であるが別として、市民は理性的であるというのが理念として根幹にある。こうした理念によって現代の議会制民主主義も成り立っていることを忘れてはならない。
こういった議会の形骸化を招いた、大衆社会についてリップマンが提出したステレオタイプによって、つまりあまりに多様で複雑になってしまったため人々は情報を処理するためにステレオタイプに頼らざるを得ず、それによって事実としての環境は覆い隠されイメージ・固定観念によってズレが発生してしまうことを明らかにした。ここから、大衆は市民より扱う情報量があまりに多すぎ利害関係も複雑であるため理性的に振舞うことが不可能に近くなっている社会状況見ることができるだろう。残念ながらそれが民主的・平等社会を志向した一つの結果である―しかし大衆が理性的に振る舞えない結果が大衆にあると見なすのは大きな間違いであろう、それは交通と多様性の増大によるの大きいだろう。また大衆社会をコーンハウザーはエリートへの接近可能性は高いが同時に非エリートの操縦可能性も高い社会と定義した。
 
 民主主義において人民による統治は不可能であると説いたのはシュペンターである。かれは公益は一枚岩でなく、人民の合意に基づく決定を下すのは無理であるとし、人民は有能なリーダーやエリートを選出することができるだけであり、選挙により候補書が支持獲得を目指し競争に晒されるプロセスこそが民衆史であるとした。つまり民主主義とは競争原理を取り入れ政治的決定を下しそれを合理的に正当化するための装置・手続きに他ならないとした。
 ここで民主化にともなう行政国家化によるエリート(選良)の出現について触れていこう。エリートと官僚は道義ではないが、社会の大衆化にともなう福祉国家化により行政組織が拡大すると、効率化のため官僚組織がうまれ、組織内の少数幹部による情報・技能優位に基づき支配は強まる。さらに寡頭制的支配者に対する大衆の依存が強まり、少数のエリート≒官僚が多数を支配するようになる*4。パレートは社会主義が実現しても少数のエリートによる支配はなくならず、ミヘルスは民主主義政党であっても少数支配の傾向は免れないと結論した。そしてミルズが指摘したような、一枚岩のように結束した一致する利害を持つパワー・エリートによる支配などがアメリカなどで見られるようになっていった。
 ミルズはこのように社会は特定の固定化した支配階級によって支配されていると指摘した。一方のリースマンやダールは、そこまで固定的ではなく、政策決定に影響力を持つ人々によって異なってくると多元的権力論の立場を示した。

 以上のような議会制民主主義の形骸化と、一部による支配に伴い参加民主主義というのが60年代以降主張されてきた。これは人民による政治への直接参加を希求する思想や運動であり、間接民主制を補完するものとして注目されている。その具体例として、情報公開の促進、国民投票住民投票オンブズマン制度や
。またそれ以外にも議会制の形骸化に対して党首討論の導入や政府委員会の廃止、副大臣性の導入などによって、国会の活性化や官僚の影響力の低下を目的とし1999年に国会改革関連法が日本で成立した。
 
 こうった制度的な動きと並んで、大衆の市民化を目的としているのがシティズンシップ教育と撮られることもできるだろう。さきほども述べたが、理性的な人間の合理的な判断によって選出する、という民主主義の理念を信じその実現を、ある種の主知主義教養主義的に求めているという背景があると考えられる。ルーマンもまた政治的・文化的な成熟に期待しており、その成熟を教育によって成そうという意志がシティズンシップ教育を推進する(自由主義)者にはあるだろう。保守主義や共和主義においては、多様化してしまい不安定になっている世論において同質性を確保しようとシティズンシップ教育に期待するものもある。両者ともにシティズンシップ教育によって同質性の獲得を求めていると見なすことができる。ただ自由主義者はその美徳とする中庸や寛容の獲得による同質性を、保守主義はマナーやしつけや日本人らしさ等による同質性を獲得するための、ひとつの手段としてシティズンシップ教育に期待し利用しようとしていると考えられる。シティズンシップ教育には主知主義教養主義志向シティズンシップ教育と、伝統・コミュニティ志向シティズンシップ教育と自由主義志向シティズンシップ教育などといった分類が可能であるかもしれない。
 クリック(204,157)は「真面目な関心ごとは、リベラル・デモクラシーか公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)、そのどちらかのやり方で解決されねばならない」と揶揄している。
 そして今日のシティズンシップ教育にはトクヴィルカーネギーがミルが期待した教育―公共図書館の設置―に近いものがある。実際英国におけるシティズンシップ教育諮問委員会座長であるヒーターは『デモクラシー』において「私はデモクラシーの推進力としてのシティズンシップ教育を考えている」(161)と述べている。果たしてデモクラシーのためのシティズンシップ教育は可能であろうか。英国で実施されたそれはクリック自身により公民的共和主義のラディカルな実行宣言と揶揄した。


 
 余談だが、市民としての義務の従来の意味は、その法に従うということであるが、今日においては権利と自由を尊重する積極的な市民の役割という義務が付け加えられようとしている180。その義務を果たすために知識・技術・機会を与えられてしかるべきとする向きがある。もちろん、政府が望んでいるのは品行方正で善良な市民であり、また積極的シティズンシップである。

 

*1:彼は民主化を諸条件の平等化と定義し、多くの利益に沿った政治という利点を指摘、今までネガティブであった民主主義にポジティブなイメージを与えさらに自由主義と民主主義を積極的に結びつけた

*2:まっ民主党さんはそれを回復しようとして失敗した感じですね。私の意見として議員の権威と権力の回復による議会機能の復活という手段では現状を打破できない程に行政国家化が進んでいるのでしょう。一番の悪かった点は、自分たちは選挙で選出された代表であることを盾にあらゆることを正当化し強行に打って出ようとした点がうまく働かなかったのだろう。全体主義にいかないでよかったー

*3:政治的無関心に対しハンチントンは民主的政治制度の効果的作用のためには、ある程度の無関心が必要であると述べた

*4:ミヘルスの寡頭制の鉄則