近代自由主義に関してのメモ

 自由主義は経済としては私有財産と市場による資本主義を基礎としているね。でも西洋の歴史を見ると私有財産はそれほど肯定的には扱われていない、プラトン私的財産捨てろ!とか言ったりするし、それを批判したアリストテレスも狩猟や牧畜・農耕による財産の獲得と貨幣を用いた交換を認めるが、貨幣の獲得が自己目的化することを憂慮し道徳的節約が必要だと指摘している。
 それは中世キリスト教世界でも同様で、アウグスティヌス私有財産は罪!だけど、罪深き我らに平和と秩序をもたらすためにはやむ終えなく必要だとかいってた。
 そういった精神が宗教改革によって変わったと指摘したのは有名なウェーバーさん、カルバンの二重予定説、即ち救われる人間とそうでない人間は最初から決定されているが、救われるかどうかは人間には分からない、そんな不安定なままだと人は内面的孤立化状態に陥る、そんな際の救いとして労働!職業と労働活動に救済の場が求められていった。勤勉禁欲にし富が蓄積されるなら神の召命に忠実であったことであり救いの確証を与えられるのだ!すげえ!おれ救われるよ!労働(∩´∀`)∩バンザ──イ!
 しかしその労働も救済されることを目的とした倫理のための営利が、営利のための営利となり資本主義は暴走していった。

 私有財産と富の蓄積は我らがロック!などによって正当化されていく。ホッブスにおける所有権は契約によって為政者の決定に大きく依存させられていた。しかしロックは自然状態*1に労働を基礎とする所有権の成立を―身体とその能力はその者のものであり、その労働の所産による財産は個人に帰属すると―見出した。

 貨幣の導入は無限の貯蔵を可能にし、さらには賃労働を可能にすることによって自分自身以上の耕作を可能にし新たな生産を生み出し社会全体の富の増大をもたらすとする。ただロックに不均衡・不平等といった観点が見受けられず素朴なところがある。
 分配に関する正義の議論はアリストテレスも言及している。かれらは物自体に価値は内在されているとし、その分配もその物と者の価値に応じて分配されるという。価値の分配は階層に則り権威的に決定され、階層的秩序を正当化していくことになる。このアリストテレスの考えは中世のトマス・アクイナスにも採用された。しかし近代はこういった階層の解体にその特徴がある。後に詳しく述べるがホッブスはこのような階層的秩序に基づく分配の正義を否定した。彼は自然状態において人は平等で自由であり、比例的平等という配分的正義は不当としたのだ。物の価値は主観的に決定され個人がある物をいかなる比率で交換してもそれは自由であり非難されるべきではないとした。ここにおいて唯一の正義は「契約の厳守」であり事物の配分は市場に委ねられていった。

 アダム・スミスは分業こそ生産力改善の最大の要因であり、個人が自己の利益のため行動することによって、結果的に社会全体の富は増大すると考えた。さらにそれは市場の自動調整機能を通じて、市場にもたらされる商品の量は自然的に有効需要に一致する傾向にあり、市場価格は自然価格*2に近づくことによって、分配の公平をも生み出す。市場のメカニズムが各人の貢献を正しく評価し人々の満足の極大化にも貢献するとしている。この考えは交換の正義が満たされるならば結果的に配分の正義も自然的に満たされるというものであり近代思想の特徴である。
そして市場の自由の要求は、政治的秩序と経済的秩序の分離が促され政府は外部から契約を保証するだけになる。政府は分業勤労システムや社会的価値の配分に介入することを禁じられ、すべては自由なる分業と交換のシステムに委ねられる。これをアダム・スミス「自然的自由の体系」とよんだ。そして経済の論理が社会の論理を覆うことにつながる。ただこの思想はユートピア的とされ、そして封建的階層秩序による不平等とは別の不平等を発生させることになった―というよりも不平等は消えることはなかったと言うべきだろうか。

 自由主義と民主主義の繋がりはどこから発生してきたのか。先にも述べたが近代は共同体的階層秩序の解体を前提とする。魂などによって―自然の全体に渡って階層的秩序は存在しており、すべてのものの価値は神が配分したようにあり、支配者と被支配者は予め決まっていた。その考えを否定し自由で平等な原子論的個人の自然状態を説いたのがホッブスであった。
 ホッブスは自然状態とは前政治的で、いかなる道徳的拘束も権威も存在しない状態であり人々は完全に自由で平等であるとした。その状態において人は己の判断に従って生命の保全のためいかなることをも為しうることを自然権であるとした。しかしその状態は万人に対する万人の闘争状態である。そこで人は死の恐怖という情念に促され理性を用い、自然状態から逃れるため平和の戒律としての自然法を発見する。その自然法は、平和への努力、平和と相互の防衛のために自然権の相互放棄を命じ、他者に許すと同じだけの自由で満足すべきことを命じ、この自然減の相互放棄のため結んだ契約の遵守を命じる。
 ただ自然法だけでは己の利益のため自然権の行使におよぶ者もいるので、刑罰を与え人々に自然法を遵守
させるための、自然状態からの相互契約を通じて設立される国家を要請した。ただホッブスは政治権力設立を相互契約に基づかせながらも、人民の側から主権への一方的な授権とみなし、絶対主権を説いた。
 ホッブスは法や国家を自由と対立させ、「自由とは、外的障害の欠如である」として、自然法を「汝の欲すべからざるところを、他人になすことなかれ」と定義し消極的自由を説いた。彼にすれば自由とは法の沈黙しているところに存在していることとなる。そしてここに至って、私的領域と公的領域の分離を見出す。
 
 ロックはホッブスに影響を受けながら前述したように王権神授説を批判した。彼の自然状態には自然法―個人の健康、自由、財産を損傷してはならない―が存在しているが、やはり不安定な状態であり、政治社会への移行を余儀なくされる。それは人間の自然本性からの堕落に近かった、かれは自然状態とは自由で平等で平和な状態と捉えていた。彼は民主制を必ずしも是としてなかったが、同意による政府、立法府の至高性、法の支配革命権などを説いていた。
 一方ルソーは英国野郎は選挙の時しか自由じゃないじゃないか、やっぱり一般意志によって畝井される直接民主制だよねと説いた。彼は国家と社会を区別することなく、また国家において自然的欲望は解消され道徳的自由を獲得するとした。ルソーにおいて私的領域と公的領域の区別は存在しなかった。
 だがロックは国家と社会を区別した。彼は自然状態において所有権と貨幣に基づく交換社会を認めており、それは自律性を持っていた。そして政治社会としての国家は、市場社会を外的に保証し安定させるものとして設立されたのである。国家は、生命、自由、健康、苦痛からの解放や所有といった市民の利益を保証するものであって、魂の救済たる信仰の自由をも保証し、国家と信仰を区別した。これにより信仰は私的領域のものとなり公私がより一層区別されるようになる。

 
 ベンサム自然権自然法の観念を斥け、あるのは実定法だけであり権利とは実定法に保証されているもの以外にはないとした。彼によれば自由選挙が行われるならば、議会は経済における市場のように機能し、最大の効用を実現すると考えた。彼は、個人の利益が全体の利益と一致しない原因は、個人が真の利益を発見していないからだとみなした。このように議会制民主主義を擁護するベンサムであっても、自然的自由の体系は成立していた。
 
こうしたベンサムにおける功利主義の正当化はどのような過程と背景があるのか。
 プラトンアリストテレスにおいては魂に内的秩序があり、人間の生における価値ヒエラルキーが存在しておりトマスアクイナスもこの思想を採用していた。この価値は近代において転換する。プラトンなぞにおいて価値のあった魂の理性の部分は中心でなくなり、欲求的部分・享楽的生活が中心となり肯定される。
 ホッブスはそれを徹底化した。彼は欲求は前であり嫌悪は悪であるとし、欲求を満たし嫌悪を回避しつつ自己保存していくのが人間であるとした。ここで人間と動物の区別はほとんどなくなる。彼からすれば勇気は戦争を起こす軍人的なものと見下され、理性は欲求を実現するための手段となった。
 こうしたプラトンアリストテレス的伝統の否定による価値ヒエラルキーの転倒は、価値のヒエラルキーによる生のヒエラルキーの肯定によって身分制社会の階層構造に対応し正当化するものを解体していった。勇気や節制、知の支配は支配階級に都合のよいものとなった、しかもそこでは階層支配が自然による区別を通じ正当化されていった。これにたいし欲求の解放は身分制秩序を崩壊し自然を自由で平等な状態とした。
 人間は魂の卓越性によってではなく、欲求と嫌悪によって捉えられる限り自然的な優劣の差は発生しない。ただこの欲求の力の解放が、現代に続く問題を発生させていくことになるのも事実である。

 人間は快楽を追求し苦痛を回避し自己保存を図るものだとして、ここにおいて自由とは何を意味してくるのだろう。それはなんども述べているとおり外的障害の欠如状態ということになるだろう。ロックは「自由とは、われわれが選択し意志するところに従って、われわれが行為したり行為しなかったりすることができることに存する」という。*3余談だが、ロックはホッブス的な人間像を採用するが、欲求の実現の際に理性の判断能力を働かせる自然法的制約が働いていることを説く。彼は自然状態にある種の調和を見出していた。アダム・スミスもロックもアプリオリな道徳規範は認めないながらも、同感・共感という自然的能力*4を通じて道徳的規則が成立し、人間を拘束することを認める。
 こういった道徳観や自然法を批判したのが先程も登場したベンサムだった。彼において快楽と苦痛のみが自然的事実として肯定され、それが唯一の価値基準となっていく。ベンサムは功利性の対極に禁欲主義があり、名誉名声は道徳家宗教家にそそのかされた結果であり、同感の原理は人々の是認否認をそのまま道徳原理とするものであり、人々の趣味などに左右されたように変化し過ちを犯しやすいとした。彼は快楽と苦痛が善悪を判断する道徳的基準でもあるとし、さらには立法の原則であり、政府の政策を判断する基準でもあるとした。立法の目的は快楽の増大と苦痛の減少以外になく、立法の善し悪しはこれによって判断される。*5アダム・スミスと同じようにベンサムにとっても社会にはある種の自然調和が成り立ち、そのため国家は必要悪であった。そしてこの功利性の原理は国民の幸福を積極的に増進するための福祉政策を正当化することに用いられるようになる。

 こうした功利性の台頭と魂の卓越性の失楽、そして絶対的実体の神の権威の低下に伴い、正義ももはや絶対的なものではなくなった。キリスト教による絶対的な価値基盤が崩壊したことによって、正義は主観的なものとなり、だからこそ共通善を形成するために議会や民主主義の必要性が増大していったと考えられるだろう。自由主義と民主主義の結びつきは中世の封建的な秩序を維持していた階層価値ヒエラルキーの否定による、アプリオリな善悪の喪失に伴い不安定ながらも手を結んでいくことになったのであろう。

 

*1:為政者によって法も制定されていないアナーキー状態、だがホッブスと異なり理性の法である自然法を認める

*2:土地代、賃金、資本の利潤を支払い得る価格

*3:ロックはキリスト教神学に影響を受けていたが人間の生における価値のヒエラルキーは認めていない

*4:神の与えた能力

*5:これでいわゆる最大多数の最大幸福が導き出される。