ロイヤルミルクティーの作り方

私流のロイヤルミルクティーの作り方をメモがわりに乗せます。
いわゆるロイヤルミルクティーというのは英国などにはなく日本独自のものであって、一番近いのはチャイと思われます。ですがチャイはシナモンなどスパイスを用いるので、それを抜いたものがロイヤルミルクティーと言えるのじゃないかと思います。

茶葉はアッサムを使用(その他に濃いめの茶葉ならいいですが、色々ためして私はアッサムが一番いいかと思います)
今回はお湯と牛乳の割合は3:2にします。
始めに鍋に水300mlをいれ沸騰させます。沸騰したらアッサムをスプーン4杯12gくらい入れ、蓋をして3分蒸らします。
3分経ったら牛乳を200ml入れ弱火でゆっくりとかき混ぜながら暖めます。このとき決して沸騰させてはいけません。温まったら茶こしを使って保存用ポットなどにいれ完成です。
お好みでシナモンやジンジャーなどを入れると、チャイになり身体をぽかぽかにしてくれるでしょう!

社会における恋愛について

 恋愛とは何であろうか、歴史家シャルル・セニョボスによればそれは12世紀に発明されたものであるとされている。
 そもそも恋愛と結婚という二つが結びつきは現代においては至極自然なことだと思われるけど、この両者が結びついたのは近代に入ってからのことだった。それ依然には結婚とは個人的なものではなく社会的なものであり家と家との間で取り結ばれるものであった。そして、そのような封建的な時代にあって恋愛は妻や夫以外の異性と愛を交わすロマンスのことをさしていたと言われている。そのような宮廷内恋愛が盛んであった南フランスでラテン語ではなくロマンシュ語で書かれた恋愛物語は人気を博し恋愛物語=ロマンスとして今日にまで使われるようになったらしい。
 このような奔放な肉体的な快楽を求め、低俗ともされた恋愛物語は時代がたつにつれて少しづつその姿を変え、崇高な精神的な愛を求め称賛する物語へとなっていった。有名なところではトリスタンとイゾルデのような騎士とお姫様の間の恋物語りに―立場の違う、つまり階級のことなる二人が恋に落ちるが困難な壁が立ちはだかりそれを越え二人は高潔な愛を手に入れる云々という形が出来上がっていく、そのもっともなものがシェイクスピアロミオとジュリエットであろう、二人は愛は家の前に悲劇に終わるがその悲劇により、精神の高潔さと愛の美しさはより高められる。こうして恋愛は個人と自由と社会的な因習といったテーマと強く結びつく、この形は現代の恋愛物語にまで引き継がれている。
 さて、このような形の恋愛が貴族から産業革命によって力を得たブルジョワの間でも読まれるようになるとなんだかんだで、個人主義と恋愛そして自由な結婚という価値が醸成されるようになった。この恋愛結婚というのは近代における産業社会と上手いこと結びつき大きな広がりをみせる。
 つまり産業化によって封建的な地域社会は崩壊し人々は都市へと流れでる。生産手段は家庭から切り離され、男が工場で働くようになると家庭仕事は女のものとして分業化が進んだ。こうした性別分業化と近代産業社会を支える役目を恋愛結婚物語が担うこととなる。
 その近代化を支える恋愛結婚物語は小説というメディアによって人々に供給され、小説の普及とともに、結婚の動悸として恋愛が不謹慎なものでなくなった―18世紀のことである。
 こうして恋愛は既存の封建的な制度を破壊する情熱とも、体制適応を志向する従順な市民を生産するためのものともみなされるようになる。この時代の恋愛についてギデンズは、キリスト教の倫理観と結びついた―情熱的欲望は理性によってコントロールされる高潔を描いたものであり、未来志向のものであり、生きる意味を失った個人に恋愛を通して物語を与えたとみなす。そして恋愛物語によって獲得される男と女によって形成される親密圏は近代社会を成り立たせる一員として機能した。(ただこのような恋愛感もゲーテの若きウェルテルの悩みの登場によってその姿を変化させる、つまり恋愛における感情的な情熱が道徳的にも許されるものとなり、自殺もまた肯定的に描かれる)

 それでは日本において恋愛はどのように扱われたのか、太宰が西洋的な恋愛にたいして懐疑的であったのは広く知られていることだろう。そもそも恋愛という語は1887年の仏和時点でamorの訳語として愛、恋愛が初めて見られた。この恋愛というのは日本における不潔の連関に富める通俗的な恋とは違うものとして当てられた言葉である。やはり太宰が恋愛を訝しんだように日本における恋愛とは高潔なもの清く正しいといった価値観が込められていたようだ。ここで日本にも西洋的な心身二元論が輸入され精神が肉体的欲求をコントロールする恋愛が高潔なものとして輸入され、心と身体が分けられていない恋は近代化のなかで否定されるようになった。そして明治30年、1897年ごろとなると恋愛と結婚の結びつきは一般的なものとして普及し確立されていったらしい。

 しかしこの近代の成立を支えてきた恋愛結婚は女性の社会進出や個人化などによって、つまり近代化の徹底化によってその存続の危機に立たされているのは明らかだろう、出生率は低下し我が国の離婚件数も結婚件数を超えてしまった!らしい。このような事態に際して、どのような問題があり解決が求められるだろうか。私としては今まで恋愛結婚が社会の安定に果たして来た機能のオルタナティブが求められるべきであり、またさらなる分業化が進めば良いのではと考える。例えば生きる意味や精神的な高潔さなどはリアルの恋愛に求めなくても今ではアニメや漫画、またはネット内での擬似的な恋愛で代用可能であろう、機能的に等価値なら何も問題ないはずだ。出産やその他についてはここでは発言を控えるが、私としては恋愛という意味が今後さらに変わっていくんじゃないかなーと楽しみにしている

ルーマンを書こう!

途中でだるくなったというか、もっとちゃんとしたの後日書きたい

私的ルーマン理解をまとめる必要があると思われるので、ついでに人の目にも晒してみむ*1

ルーマンにおいて一番に重要なのが「世界の複雑性の縮減」であることは間違いないと思われるのですが、それを現存するシステムは複雑性を縮減しているので合理的であり、それによって現体制を正当化する保守的なものだ、という具合に理解してしまうのは間違いでありましょう。これがハーバマスさんによるルーマン批判ですね、「テクノクラートイデオロギーだ!」という文句は有名です。この類の批判においてルーマンパーソンズによる社会システム論の改良版という具合に理解されているのですが、それは誤りなのです。

ではでは、その複雑性を縮減するシステム(システム論)とはなんのことなのでしょう。(辞書的な意味はググッてね♡)
システム論は総体の諸要素が相互に関係してるよ!要素間の相互関係大事よ!というモデルみたいなものです。「個別要素間の複雑な相互関係の有機的組織化の形態」がシステム理論の対象なんですね。
そしてシステムはシステムとシステムの環境との間に、システムに属すものと属さないものとの一義的な境界を創出するというのが特徴です。
社会学には主観的に思い込まれた行為の意味が社会を構成する要素と見なすものと、社会的事実の相互作用の連帯が重要である(心的状態を可能にするのは、それに先立つ社会的事実である)という二つの主要な流れがあるのはご存知でしょう。
社会学におけるシステム論としてはルーマンの師でもあるパーソンズのそれが有名でありましょう。パーソンズのシステム論である、構造―機能的システム理論は、規範と価値の特定の構造によって特徴付けられる社会システムを前提とし、社会的に形成されたものの存続を保証するためにはどんな「機能的なはたらき」が必要かを問題とする。つまり社会システムの存続が重要なきほん的関心となる。そしてこの態度は、例えば事実として現在社会秩序を成り立たせている奴隷制を正当化する危険性もある云々で批判された*2
 さてこの後継者と言われるルーマンのシステム理論はどんなものであろうか、ルーマンの理論はパーソンズの構造―機能を転換し、機能―構造的システム理論を打ち立てた。
 ルーマンは近代という多分化社会において、社会システムは規範などの価値秩序の統一的構造としては定義できず、非―規範的な概念を定式化することが重要であるとして機能―構造的観点を採用したのです。
そしてこの理論は、社会システムが代替不可能な特殊なはたらきに必然的に依拠しているという仮説を斥ける。ルーマンはある社会システムを成り立たせている特定の働きがもし機能しなくなったとしても、それに代わる他の働きが作動することによって対処できるとします。
 ルーマンによって、どの具体的な働きがシステムの存続を因果的に引き起こし未来を保証するのか、といったことは問題とならなくなる。それに代わり「どの機能がシステムの特定のはたらきを実現し、このはたらきはどの機能的に等価な可能性によって代わられうるのか」が問題と成る。ルーマンによる機能分析は因果関係の発見ではなく、問題と問題解決の連関に注目するのです。
 

*1:参考文献は馬場さんの『ルーマンの社会理論』とクニールとナセヒの『ルーマン社会システム理論』そしてルーマンの著作の信頼、権力、社会の芸術・教育システム・社会、にリスク社会論あたりである。ぶっちゃけ上記の著作を自分で読んだほうがイイと思います。そのまま文章ひっぱてきてますし

*2:奴隷制が善であるか悪であるかといった問いはここでは棄却されている

みんな幸せになれるのか

はてなダイアリーをはじめればみんな幸せになれる……のか
幸せ、または幸福といったものが何であるのか、それを語るのは簡単なようで困難だ。どうしたらいいか
そう、ちゃんちゃら可笑しいへのカッパなのだが、私は人々の幸福の増大を願ったりして勉強したり頑張ろうとか思っている。いがいと、大学で研究とかしている人も教授とかも、心の何処かで世の中が幸福になればいいな、みんなが幸せになれればいいな〜と思ったりしながら悪戦苦闘している。頑張ってる、いい世の中になればいい南妙法蓮華経
人の幸福を望みながら苦しんだりしている。私もそうだ。
自分だけの幸せではなく、人の幸せを望んでいるんだけど、そのために苦しんでいる。
これは何の冗談だろうか。しかし冗談じゃないんだ
もしかしたらこの苦しみこそが快楽なのかもしれないとかいうありきたりな悟りひらいっちゃった達観しちゃっぜ色即是空空即是色展開になったりはしない―幸福の分配を金銭でなんとかするのは無理だから価値変えてしあわせになろうぜ宗教(∩´∀`)∩バンザ──イ、になれるひとはなりゃいい。うちの母親は題目唱えながら幸せだったり不幸せだったりしてるし悪いもんじゃねーと思う

書くことは幸せだろうか。こうして自由に検閲されることなく表現できることは幸福だ
その幸福がいま!イマ!阻害されようとしている!!とか言う気はここではない
なにが書きたかったんだが分からないが―ああ彼がそういったから試しに書いてみたんだ何も考えずにノーフューチャーですね
でもまー、私は私だけの幸福を願うこと無く好きな人達の幸福を願い、できればそれを支援したりしながら、コミュニティといえばいいのか公共といえばいいのか自由と多様性のために頑張るよ
君も私も幸福のうちにあったらいいね

リスク社会 「参加と信頼」 書き直した

前回のがひどかったので書き直した
リスク概念についてはhttp://d.hatena.ne.jp/Sebastianus/20100818/1282117312を参考にしてください

 リスク社会(によって生じるコンティンジェントな状態)の対応方法として、昨今語られている参加民主主義(地域行政などの決定過程への参加機会の増大により間接民主制の足らない部分を補い民主主義を成熟させようとするもの)や情報公開などが挙げられている。現代において参加型民主主義を推進するのは、今日のリスクが決定/非決定の差異に基づく立場の違いによってコミュニケーションにおけるパースペクティブが異なり、この差異が社会的コンフリクトを生じさせていることに関わっている。
 またリスクとは未来における損害の危険性のことであり、ある決定をする際にその決定がもたらすであろう未来を予測できるか否かは、その決定するかしないかといった選択にの際に発生するものである。そして、未来の損害が予測できるかできないかといった事態は決定の際の重要な鍵となるだろう。
 未来を予測できるかできないかといった、知/非知(特定化された非知/特定化されない非知)の差異は、リスクにおける決定/非決定(被影響)に大きく関わる。未来に大きな被害が起こることがわかれば、その被害がおこるであろう決定に否定的になるのは明らかである。それゆえに、決定権をもつ側は情報をある程度隠蔽もしくは操作しようとするだろう。しかし過去の環境問題や医療問題の事例を見れば明らかなように、こうした隠蔽は未来によって暴かれ大きな損害(信頼の喪失などもふくめ)を招いた。こうした歴史的背景を元に、今後この様な事態が生じないために情報公開が求められるようになったと考える。情報公開によって、決定過程に参加できない者も未来における被害の可能性を知ることができることによって一方的に(決定に参加できずに)被害を被るかもしれない危険な状態から、リスクをリスクとして承諾したうえである決定に賛同できるようにすることが期待されているのだろう。参加も情報公開もこの意味でリスク・マネジメントの一手段であるということができる。
 しかしルーマンは参加型民主主義や情報公開が果たすであろう役割にある程度は期待し、その成果も認めているものの、それと同時にそれ以上に参加や情報公開がもつ危険性を指摘している。彼はハーバマスの合意に対する批判と同じやりかたで、これらに対し警告をしている。分かりやすく言えば、参加が正当化のための道具となること――ある程度参加が達成されていることによって、この決定は正当性があり妥当である決定であると環境(外部)に対して説明がなされてしまい――参加への期待や信頼によって参加が正当性を持ち決定が妥当性をもつことを危惧する。つまり参加が一つのシンボルとして機能すると多くの人の声や少数の声を聞くなどの、当初参加が理想としていたであろう理念は働かなくなり、その参加に参入できなかった者たちの声が排斥されることが危惧される。どちらかといえば今まで決定に参加できなかった者たちのためである「参加」が、既存の決定権をもつ者たちの決定を正当化するための道具として利用されてしまう恐れが、参加のシンボル化にはあるのである。
 参加民主主義には私も期待しているのだが、いくら参加といってもすべての者があらゆる決定と参加に加わるわけにはいかない。いくら参加を促したとしても必然的に決定/非決定いう差異が生じてしまうのは明らかであり、今まで解決を目指していたリスク問題は姿を変え別のリスクとして現れる。しかし参加がシンボル化するようになると、参加民主主義にも潜む決定/非決定という図式を覆い隠すことになり、この隠蔽によりリスクは増大することとなるだろう。そして未来において参加民主主義への信頼もまた喪失することになる。
 
また情報公開は、公開することにより新たな混乱の火種になってしまったり、公開しないことにより人々の信頼を喪失させるなどというリスクがつきまとったりする。今日の決定/非決定におけるリスクにおいて、非決定者・被影響者の側は情報の開示によって得られた未来における損害の可能性に、さらなる不安を抱きパラノイア的に全ての危険を排除しようとする傾向があるとされている。これによって、為されなければならない決断の多くがなされずに「決定しなかった」という決定ばかりなされる。絶対とは言い切れ無いが、この状態が続くのは健全とはいえないだろう。そのため情報公開もまた慎重である必要があるとされる(行政とかそちら側からの意見としてであるのが強いと私には思え、この批判は少々物足りないのではないかと感じている)こうった理由でリスクにおける参加と情報公開は決定的な解決にはならないしだろうし、決定/被影響といった図式を崩すことにもならないだろうと考えられる。

 
 ルーマンの立場は以上のようなものであるが、一方で参加や情報公開がリスク社会の問題への対処方として成果を上げていたり期待されているのも事実である。小松(2003)によればそれは信頼の構築によるものだと言う。
 参加民主主義や情報公開が上述した方法によって信頼の構築に繋がるのは理解していただけると思う。ただ、この信頼の構築はどちらかといえば既存の決定側への信頼の構築に関わるものである。今日のいわゆる具体的な物事を論題としたリスク・コミュニケーション論はこうした信頼の構築の技法を説いていると考えられる。
 信頼とは、何ものかに対する信頼であり、(相互行為としての)コミュニケーションにおいては、相手が私を信頼しているだろうことを信頼できることによって、コミュニケーションは円滑に作動するというのが彼の持論である。ただ、伝統的な小さな村での生活と違い、近代化し機能分化した社会においては人格への信頼だけではなくシステムに対する信頼である「システム信頼」があらわれた。ルーマンのいうシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアに対する信頼のことと同意義と捉えてもいいだろう。たとえば貨幣というメディアに対する信頼は、そのまま経済システムに対する信頼となる。
 システムへの信頼は、メディアを介した信頼の信頼となる。たとえば、小松を引用すると「貨幣への信頼は、自他のやりとりの中で、両者以外の任意の第三者が、ある紙幣、ある金属を、一定の価値を有する貨幣として受容することを、相手たる他者が信頼しているということを、自分が信頼するときに、貨幣は貨幣として流通する」
 何者かの信頼を信頼という形態ではなく、何者かが信頼している何かを私も信頼するということによりシステム信頼となるのである。私が、ある真理を信頼しているだけではなく、匿名の第三者がその真理を信頼し、他者もまたその真理を信頼していることを私もまた信頼する―その時、私はその真理を私以外の他者に真理としてコミュニケーションできるようになると考えられていう。(シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアについての細かい話は省く)
 こうしたシステムへの信頼は、そのシステムがもつ機能に対する信頼であるのだが、この機能が信頼に足るものかどうかの確認・チェックは専門化していく。例えば科学の領域における真理などは、最早外の人間に判断はできない。それゆえシステム内の専門家が当のシステムの信頼性を確認することとなる。つまりシステムに対する信頼には、システムの信頼性の確認をしていることに対する信頼も含まれる。
 
 リスク・コミュニケーション論における信頼の構築とは、システムに対する信頼の構築を目指したものである。決定/非影響の間にある決定過程に参加できない者たちとのコンフリクトの回避・調整を目的としたものがリスク・コミュニケーションといえるだろう。そして、決定者もしくはシステムの側はコンフリクトを回避するために信頼を必要とする。システムに対する信頼が維持されているならば、そのシステムの決定に対する信頼も得られることによって、決定への非参加における危険をも問題視されることなく円滑に進められるようになるからである(更に信頼がある方が時間的な猶予もあるとされる)。小松によれば、「そうした『信頼の技法』として重要になるのが、情報開示という戦略であり、情報開示が有効であるのは、密室で決定が下されたわけではないという印象を人々に与えるからであ」り、ルーマンはこうした信頼の技法を批判している。 
 
 リスク・コミュニケーション論における信頼の技法によって構築された信頼は、社会的に得た信頼によって決定/非決定の間に生じるコンフリクトを回避することには成功するだろうが、しかし当のリスクを解消できるかどうかはまた別の問題である。また、信頼の構築が持つリスクは隠蔽される。リスク概念の際に述べたように、リスクは絶対的なものではなく、ある決定/被影響の間にあるコンフリクトを解消したとしても、その解消によって新たな決定/被影響におけるリスク/危険が発生すると考えられる。しかし、信頼によって正当化された決定過程は、ある一点における決定/被影響を解消したことによって、その他の決定/被影響を隠蔽することに成功してしまう。リスクの対処方であるとされる信頼の構築が、同時にリスクを再生産する事態に陥る。
 このリスク・コミュニケーションは、ある一つのシステムを問題とした場合には十分有効であろうし、実際成果を出している。しかし、現代のリスク問題のように一つのシステムの範疇を超えたリスクに対処しなければならない場合はどうなるだろう。参加や情報公開も用いて得た信頼は、そのシステムが問題とするリスク・コミュニケーションを円滑にするだろうが、それ以外の視点や影響がある立場に立つ観察者からはどうだろう。おそらくはリスク/危険の関係性は解消されずにコンフリクトが発生する(可能性がある)と考えられるだろう。
 リスクは必然的に決定/非影響という差異を発生させる。たとえある観点からみた(ある決定/被影響)リスク/危険の間にある差異を(信頼を用いて)問題ないものとして処理できるようになったとしても、別の観点からまたリスク/危険の関係が発生するリスクは不可避なのである。その事実を隠蔽してしまう信頼の技法と、そのための手段となる参加と情報公開をルーマンは批判する。

 ではルーマンは何に解決を見出すのだろう。小松によれば「互の立場放棄を教養せず、一方が他方によって互いに説得されずに進捗する意思疎通という政治文化の成熟に、期待をつないでいる」*1らしい。(この政治文化の成熟とシティズンシップ教育を私は結びつけるつもりである)
 彼は相手を説得させ合意にいたらせ、同質性によって成る秩序を良しとはしていない。逆にそのような事態は一時的には効果があるだろうが、同質性を重んじるばかり当該システムにとって都合の悪い問題の隠蔽などが生じ、逆に大きなリスクを背負うことになるだろう。大切なのは「市民的平和という最小限のもとで、多様性を保持すること」である。真理と定めて、コミュニケーション的行為に基づいた対話などといった一つの方法に拘ることによって多くのそこに参入できない者たちを排斥するのではなく、「その場その場限りでのコーディネーションこそが、重要」なのであるとしている。

*1:リスク社会のルーマン 76

ルーマンのリスク概念について

リスクの対概念としてルーマンは安全を用いず危険を採用している。
この「リスク/危険」の区別はセカンドオーダーの観察に位置する。
逆にベックやそのたの「リスク/安全」とするリスク概念はファーストオーダーの具体的な物や技術(副流煙など)に関わるリスクだとして区別される。
ファーストオーダーは「なにが」という領域に関わる観察であり、セカンドオーダーは「どのように」に関わる観察である。
リスクと危険の区別は、決定/非決定(被影響)に関わる。リスクとは未来の損害に関わる概念であるが、その未来の損害を把握し了承して自ら決定した帰結と見なされるものをさす。一方の危険とは、未来の損害が自らの決定に帰結するものではなく、その他の人間やシステムなどに帰属する場合をさす。(これにより損害の責任を誰に帰属させようとしているのか、という観察などが可能になるだろう。)
 ベックと異なるところは、ある物事に客観的に属しているリスクを問題にせず、また決定に依存していることをだけを取り上げているのではない。
 ベックや従来のリスク論が客観的な具体的なリスクに注目する一方、ルーマンはリスク/危険という区別は相対的というより戦略によってリスクが危険に危険がリスクに十分に変わりうることを示している。たとえば,地震で家が倒壊してしまったとしよう。この場合、驚異的な自然による力がはたらいたために損害が発生したのであり、この損害は彼の決定に帰属しないと捉えるのならば、この未来における可能性は危険と見なされる。しかし一方で、日本は地震が多い地域であり、その地震による未来の損害は十分予知できたものであるにもかかわらず、地震対策をしていなかったのは当人の決定に帰属するものであり、この損害はリスクであるとみなすこともできるだろう。(いやいや、地震に対する対策は十分にしてあると知らされていたにもかかわらず、大きな損害を被ったことは、施工業者の虚偽によるものであり損害の責任は施工業者にであって当人にとってこの未来の損害は危険と見なされる。などとも言えることが可能であろう) 
以上のようにリスク/危険は客観的や絶対的なものではなく、また物やテクノロジーの属性としてだけではなく、コミュニケーションの戦略によって変わりうるのであり、被害者は一体誰であるのかが論争の的となり。これらは観察の立場の違いによって変化してしまう。
 このように、損害の帰結を何か一つのシステムや個人に一方的に帰属させることは困難である。それゆえ、あるものに損害の帰結を帰属させることは今日複雑化した社会を捉えていく観点としては不十分であるといわざるをえないだろう。
 このように、(小松の言葉を借りれば)ルーマンのリスク概念は「リスク/危険が、帰属の相違による区別であること」であり、決定が大きな役割を担っていることが分かった。

 リスクはルーマンのリスク論は決定者と被影響者の二元的コードによって成り立っているのだが、この区別から導きだされるリスク/危険の差異は客観的なものではなく、観察の視点によって「リスクは危険であり危険はリスクである」となることに注目したものである。
 ある未来への損害が予想される決定に参加できないものは一方的に被害を被る可能性があり、己の決定に関わらないところで危険にさらされてしまうと見なされる。現在において未来がリスクとして現れるか、それとも危険として現れるかによって、ある決定の意味はことなったものとなる。当然のことながら危険に晒される可能性があるものの、その決定に対する態度と、リスクを背負った上で決定したものとの未来の損害に対する態度が異なる事態は容易に想像できるであろう。未来における損害がリスクとして現れるか、危険としてあらわれるかの差異である。
これによって、社会的連帯の形態も別のものになり、リスクをめぐるコンフリクトは複雑なものとなる。(リスクは例えば法や規範などによって解決できない。話はそれるがリスクに対して道徳で対処することは、立場や視点が硬化し、いたずらにコンフリクトを招く事態に陥ってしまうだろう)ルーマンは今日の社会的抗議運動が「リスクに満ちた他者の行動の犠牲となりうるような状況を拒否することを」特徴としている。
 またルーマンは一貫してリスクに対して、決定者/被影響者という区別が発生してしまうことは必然的であると考えている。あるリスクを避けようとする決定がまた別のリスクを含んでおり、またその決定に参加できないものが必ずあらわれ、この事態に陥ることは不可避であると考える。しかし同時にこのようなコンフリクトな状況は今日の社会を如実にあらわすものであり、それはセカンドオーダーの観察によって可能となるだろう。
 今日のリスクの特徴の一つに、過去のリスクとは違って未来に予測できなかった事態が発生する―以前は計算可能と考えられていたリスクに対する態度をとることが困難になってきたということがあげられる。
 リスクが未来の損害に関わるものである限りにおいて、未来の損害を予測可能か不可能であるかといった差異は大きな問題となる。例えば副流煙による被害の問題などは、昔から身体に害があったのだが、その事実は知られていなかったが故にリスク/危険の問題として取り上げられなかった。しかし、その事実が明るみになったことによりリスクとして扱われるようになったといえる。知/非知はリスク論を語る上で重要な区別である。
 知/非知の捉え方はルーマンとベックではやはり異なる。リスクの捉え方と同様に、ルーマンは知/非知においても具体的な何かの属性としてのリスクに注目するのではない−例えばタバコの副流煙がもつリスクなど。(リスクは機能分化したシステムの二元化コードによってリスク化するーはおいておいて)
 今日のリスクは以前ならばあるシステム内の問題ですんだリスクが、機能分化した社会では、あるシステムの決定が、そのシステムの環境である外部に計り知れない予測不能な影響を及ぼすようになる。しかも、そのシステムの合理的な作動の結果が、他のシステムに甚大な影響を及ぼすようになった。この理由として、現代の機能分化した社会においては以前のような社会の中心とよべるような、社会を制御しうるような中心の欠如にある。中心の喪失は同時に権威を用いた円滑なコミュニケーションを困難にさせる。(ギデンズがあげる専門家集団も結局は一つのエリートの場であり中心とはなりえない)。知識社会学などが取り上げた知のコミュニケーションは権威を持てず、また問題解決の中心たりえなくなり「非知のコミュニケーション」が「正統化」されるとルーマンは語る。
非知とは、端的に言ってしまえば予期出来ない未来のことを指す。さらにこの、非知のコミュニケーションは、ある者が置かれている社会的な立場によって異なって現れる。この異なった立場の者たちがそれぞれ異なったリスクを問題としてコミュニケーションがおこなわれる。教育が問題視することと経済が問題視することは異なってしまう、それは地方や都市、高齢者や若者など、さまざまな違いがあるところで発生する可能性をもっている。リスクには何か絶対的な場所,中心的なものはないのである。あるのは、決定/被影響というコードである。
 ただ、非知―予測出来ないといっても、その中には特定できる非知と特定出来ない非知といった種類がある。ベックは特定できる非知に関心を持ち、特定出来ない非知に注目するのがルーマンである。ベックの立場は社会が認知していようがいまいが潜在的にリスクはそんざいしている―ある科学技術などの結果には副次的に環境を汚染するような結果が付随すると考えている。ベックはコミュニケーション以前に技術などに既にリスクは存在しているという立場をとる。ルーマンは、特定化される非知―何がわからないかわかっていること―については、何を解決すべきか分かっている状態であるので特に問題ではない―それどころか科学システムの分出を支えるとしている。いわゆるリスク・マネジメントなどと言われる分野は、特定される非知の分野の問題であり、どういう被害が未来に起こり得るのか想定できる分野の話である。何が解明されるべきか分かっているということは、問題を解明し、解決のための手段や方法を考え安全に向かっていけるということでもある。ベックが想定している非知はこの段階までの非知である。
 しかし上記のような立場をとることが出来ない、何が問題であるか分からない事態といった特定化されない非知の場合は話が違ってくる。その際にルーマンはカタストロフィーが成立するという。このカタストロフィーは決定/被影響の差異によって―特定化されない非知によって生じる。リスクコミュニケーションにおいてカタストロフィーが発生しやすくなることは問題である。カタストロフィー状態では、特定化されない非知のためシステムに対する信頼が破綻し、リスクにたいして不安を抱き、ある種パラノイア的にリスクだけを回避しようとするようになる。詳しくいえば、特定化されないリスクは科学システムへの変換可能性を疑問視されてしまい所謂合理的な選択が放棄されてしまいやすくなる、と言った方が正しいだろうか。

小松によれば、知/非知の区別は決定者の立場から決定のリスクを吟味する際に依拠するものである。一方、特定化される非知/特定化されない非知の差異は、まさにリスク/危険の差異であり決定者/被影響者との立場の相違である。ルーマンが観察の対象としているのは後者の方である。(決定者の側は、特定化されない非知を問題としているのを大衆の情動的反応と捉え、それを戒め冷静な議論をおこなうよう規範的な要請を提起するだろう。また、こういった決定者の啓蒙に対し素人が知識を得て対抗しうるように仕向けることもあるだろう。ただルーマンはこのどちらにも組みせず、非知とリスクを巡ってこのようにコミュニケーションが行われることに着目する)
   とりあえず続く