ルーマンのリスク概念について

リスクの対概念としてルーマンは安全を用いず危険を採用している。
この「リスク/危険」の区別はセカンドオーダーの観察に位置する。
逆にベックやそのたの「リスク/安全」とするリスク概念はファーストオーダーの具体的な物や技術(副流煙など)に関わるリスクだとして区別される。
ファーストオーダーは「なにが」という領域に関わる観察であり、セカンドオーダーは「どのように」に関わる観察である。
リスクと危険の区別は、決定/非決定(被影響)に関わる。リスクとは未来の損害に関わる概念であるが、その未来の損害を把握し了承して自ら決定した帰結と見なされるものをさす。一方の危険とは、未来の損害が自らの決定に帰結するものではなく、その他の人間やシステムなどに帰属する場合をさす。(これにより損害の責任を誰に帰属させようとしているのか、という観察などが可能になるだろう。)
 ベックと異なるところは、ある物事に客観的に属しているリスクを問題にせず、また決定に依存していることをだけを取り上げているのではない。
 ベックや従来のリスク論が客観的な具体的なリスクに注目する一方、ルーマンはリスク/危険という区別は相対的というより戦略によってリスクが危険に危険がリスクに十分に変わりうることを示している。たとえば,地震で家が倒壊してしまったとしよう。この場合、驚異的な自然による力がはたらいたために損害が発生したのであり、この損害は彼の決定に帰属しないと捉えるのならば、この未来における可能性は危険と見なされる。しかし一方で、日本は地震が多い地域であり、その地震による未来の損害は十分予知できたものであるにもかかわらず、地震対策をしていなかったのは当人の決定に帰属するものであり、この損害はリスクであるとみなすこともできるだろう。(いやいや、地震に対する対策は十分にしてあると知らされていたにもかかわらず、大きな損害を被ったことは、施工業者の虚偽によるものであり損害の責任は施工業者にであって当人にとってこの未来の損害は危険と見なされる。などとも言えることが可能であろう) 
以上のようにリスク/危険は客観的や絶対的なものではなく、また物やテクノロジーの属性としてだけではなく、コミュニケーションの戦略によって変わりうるのであり、被害者は一体誰であるのかが論争の的となり。これらは観察の立場の違いによって変化してしまう。
 このように、損害の帰結を何か一つのシステムや個人に一方的に帰属させることは困難である。それゆえ、あるものに損害の帰結を帰属させることは今日複雑化した社会を捉えていく観点としては不十分であるといわざるをえないだろう。
 このように、(小松の言葉を借りれば)ルーマンのリスク概念は「リスク/危険が、帰属の相違による区別であること」であり、決定が大きな役割を担っていることが分かった。

 リスクはルーマンのリスク論は決定者と被影響者の二元的コードによって成り立っているのだが、この区別から導きだされるリスク/危険の差異は客観的なものではなく、観察の視点によって「リスクは危険であり危険はリスクである」となることに注目したものである。
 ある未来への損害が予想される決定に参加できないものは一方的に被害を被る可能性があり、己の決定に関わらないところで危険にさらされてしまうと見なされる。現在において未来がリスクとして現れるか、それとも危険として現れるかによって、ある決定の意味はことなったものとなる。当然のことながら危険に晒される可能性があるものの、その決定に対する態度と、リスクを背負った上で決定したものとの未来の損害に対する態度が異なる事態は容易に想像できるであろう。未来における損害がリスクとして現れるか、危険としてあらわれるかの差異である。
これによって、社会的連帯の形態も別のものになり、リスクをめぐるコンフリクトは複雑なものとなる。(リスクは例えば法や規範などによって解決できない。話はそれるがリスクに対して道徳で対処することは、立場や視点が硬化し、いたずらにコンフリクトを招く事態に陥ってしまうだろう)ルーマンは今日の社会的抗議運動が「リスクに満ちた他者の行動の犠牲となりうるような状況を拒否することを」特徴としている。
 またルーマンは一貫してリスクに対して、決定者/被影響者という区別が発生してしまうことは必然的であると考えている。あるリスクを避けようとする決定がまた別のリスクを含んでおり、またその決定に参加できないものが必ずあらわれ、この事態に陥ることは不可避であると考える。しかし同時にこのようなコンフリクトな状況は今日の社会を如実にあらわすものであり、それはセカンドオーダーの観察によって可能となるだろう。
 今日のリスクの特徴の一つに、過去のリスクとは違って未来に予測できなかった事態が発生する―以前は計算可能と考えられていたリスクに対する態度をとることが困難になってきたということがあげられる。
 リスクが未来の損害に関わるものである限りにおいて、未来の損害を予測可能か不可能であるかといった差異は大きな問題となる。例えば副流煙による被害の問題などは、昔から身体に害があったのだが、その事実は知られていなかったが故にリスク/危険の問題として取り上げられなかった。しかし、その事実が明るみになったことによりリスクとして扱われるようになったといえる。知/非知はリスク論を語る上で重要な区別である。
 知/非知の捉え方はルーマンとベックではやはり異なる。リスクの捉え方と同様に、ルーマンは知/非知においても具体的な何かの属性としてのリスクに注目するのではない−例えばタバコの副流煙がもつリスクなど。(リスクは機能分化したシステムの二元化コードによってリスク化するーはおいておいて)
 今日のリスクは以前ならばあるシステム内の問題ですんだリスクが、機能分化した社会では、あるシステムの決定が、そのシステムの環境である外部に計り知れない予測不能な影響を及ぼすようになる。しかも、そのシステムの合理的な作動の結果が、他のシステムに甚大な影響を及ぼすようになった。この理由として、現代の機能分化した社会においては以前のような社会の中心とよべるような、社会を制御しうるような中心の欠如にある。中心の喪失は同時に権威を用いた円滑なコミュニケーションを困難にさせる。(ギデンズがあげる専門家集団も結局は一つのエリートの場であり中心とはなりえない)。知識社会学などが取り上げた知のコミュニケーションは権威を持てず、また問題解決の中心たりえなくなり「非知のコミュニケーション」が「正統化」されるとルーマンは語る。
非知とは、端的に言ってしまえば予期出来ない未来のことを指す。さらにこの、非知のコミュニケーションは、ある者が置かれている社会的な立場によって異なって現れる。この異なった立場の者たちがそれぞれ異なったリスクを問題としてコミュニケーションがおこなわれる。教育が問題視することと経済が問題視することは異なってしまう、それは地方や都市、高齢者や若者など、さまざまな違いがあるところで発生する可能性をもっている。リスクには何か絶対的な場所,中心的なものはないのである。あるのは、決定/被影響というコードである。
 ただ、非知―予測出来ないといっても、その中には特定できる非知と特定出来ない非知といった種類がある。ベックは特定できる非知に関心を持ち、特定出来ない非知に注目するのがルーマンである。ベックの立場は社会が認知していようがいまいが潜在的にリスクはそんざいしている―ある科学技術などの結果には副次的に環境を汚染するような結果が付随すると考えている。ベックはコミュニケーション以前に技術などに既にリスクは存在しているという立場をとる。ルーマンは、特定化される非知―何がわからないかわかっていること―については、何を解決すべきか分かっている状態であるので特に問題ではない―それどころか科学システムの分出を支えるとしている。いわゆるリスク・マネジメントなどと言われる分野は、特定される非知の分野の問題であり、どういう被害が未来に起こり得るのか想定できる分野の話である。何が解明されるべきか分かっているということは、問題を解明し、解決のための手段や方法を考え安全に向かっていけるということでもある。ベックが想定している非知はこの段階までの非知である。
 しかし上記のような立場をとることが出来ない、何が問題であるか分からない事態といった特定化されない非知の場合は話が違ってくる。その際にルーマンはカタストロフィーが成立するという。このカタストロフィーは決定/被影響の差異によって―特定化されない非知によって生じる。リスクコミュニケーションにおいてカタストロフィーが発生しやすくなることは問題である。カタストロフィー状態では、特定化されない非知のためシステムに対する信頼が破綻し、リスクにたいして不安を抱き、ある種パラノイア的にリスクだけを回避しようとするようになる。詳しくいえば、特定化されないリスクは科学システムへの変換可能性を疑問視されてしまい所謂合理的な選択が放棄されてしまいやすくなる、と言った方が正しいだろうか。

小松によれば、知/非知の区別は決定者の立場から決定のリスクを吟味する際に依拠するものである。一方、特定化される非知/特定化されない非知の差異は、まさにリスク/危険の差異であり決定者/被影響者との立場の相違である。ルーマンが観察の対象としているのは後者の方である。(決定者の側は、特定化されない非知を問題としているのを大衆の情動的反応と捉え、それを戒め冷静な議論をおこなうよう規範的な要請を提起するだろう。また、こういった決定者の啓蒙に対し素人が知識を得て対抗しうるように仕向けることもあるだろう。ただルーマンはこのどちらにも組みせず、非知とリスクを巡ってこのようにコミュニケーションが行われることに着目する)
   とりあえず続く