リスク社会 メモ

むらしっとさんに触発されて久しぶりに

 リスク社会とはなんだろうか。端的にいってしまえば未来が現在になったというか、未来が計算可能となった故に未来の危険性に対する認識が高まり現在の決定に目に見える形で帰責が付随してくる社会といえるだろうか。
 神は死んで、自然もまた人間(科学)によって支配されるものとなると、この世の中で理解不可能なものはなくなった。全ては計算可能とみなされる−みなされなければならない。自然災害も神などによるものではなく、人によって対策可能なものと見なされるようになった。
 科学の発展による世界の在り方、見方の変化がリスク社会の根本的な原因であろう。ベックはリスク社会とは近代化の徹底によるものだと言っている。
 リスク社会においては未来は計算可能であるという認識が重要な役割を果たす。しかしまーもちろん、この認識は誤りだったというか、未来は計算できなかった。こういった認識のもとに設計されたシステムでは上手くことを運べなかった・・・と言ってしまっていいか分からないが。
 じゃーどうしようか。そこで現在は「非知」、つまり未来は知り得ない、現代の技術が未来の環境にどれだけ損害を与えるのか現代の知識では予測できない故に、非知というテーマがコミュニケーションの中心になったりしている(たしかルーマンはこんなことを言ってる)
 リスクがあることは分かるのだが、具体的な損害が未来でどれほどのものになるのか、また誰が損害を被むり、損害を被る者は決定に参加できるのか。こういったコンティンジェントな状態に現代のリスク社会は陥りやすい。そして未来の損害が不可視な故に何も選択できないという選択が接続し社会が不安定になる未来が危惧される。
 新自由主義はよく自己責任論を掲げる。まー自己責任論はシステムというか行政というか、責任を負う側とされる者達にとっては都合のイイ理屈だと思うのだが、現代的なリスク社会において暴力的な自己責任論は破綻している。
 ある過去による決定による現在生じた損害が、その決定者に帰責されるのは当然だ。しかし、その損害が、その決定以外の様々な別の決定が重なった結果だとするならば、その決定による損害に対して自己責任だとすることは出来るだろうか。
 ミクロとマクロを混同してしまっている気もするが、近代化により多くのことは伝統から離れ個人が選択可能なものとなった。そして選択・決定には常にリスクがつきまとう。そして現代においてリスクは計算が困難であると認識されている―計算していたリスクによる損害とは大きく異なった帰結となるのは例外でなくなってしまっている。このようなリスクに対して自己責任は適用されるだろうか。
現代の社会は、このことに対する抗争の真っ最中であると言えるのではないか。責任者は誰だ!と、責任者をなんとか見付け出して責任を負わせようと必死の抵抗が見て取れる―例えば冷凍餃子問題など

 リスク社会においては「知識/非知」にたいする扱い方の違いが重要で面白い。ギデンズなんかは知識が増えることによって社会は再構成され改善していくなんて知識に依拠してる一方、ベックは非知に注目し産業社会が生み出す予測不可能なリスクに産業社会が対処し再帰性が促され産業社会の問題が問い直されるとしている。ルーマンなんかは特定化される非知に着目し、何が問題でありどうするべきかというオペレーションが可能となるとする。
 特定化される非知は、なにが問題であるかの認識を可能とするので問題とはならないの。しかし特定化されない非知は、人々の不安を増大させ社会秩序を不安定にする。特定化されなければ選択の決定者は、その決定の被影響者にたいして説明できなくなり、因果関係も曖昧になり、人々の疑念が増大する―変質者や無差別殺人犯に対する過敏などが例としてあげられるだろうか。
 この特定化されない非知のコミュニケーションこそが、現代リスク社会における問題として扱われる。
 リスク社会において増大する不安感への対処方として、決定への参加、開かれた参加を通した行政改革などがあげられる。つまり、いままで選挙くらいでしか参加できなかった様々なこと、怠けていた地域自治への参加などによって市民の決定の機会や影響力を増大させるのが有効であると考えられる。
 そして、参加が増大し地域住民や地域自治体間のコミュニケーションが増大していくことによって重要になってくるのが信頼の構築である。