リスク社会 「参加と信頼」 書き直した

前回のがひどかったので書き直した
リスク概念についてはhttp://d.hatena.ne.jp/Sebastianus/20100818/1282117312を参考にしてください

 リスク社会(によって生じるコンティンジェントな状態)の対応方法として、昨今語られている参加民主主義(地域行政などの決定過程への参加機会の増大により間接民主制の足らない部分を補い民主主義を成熟させようとするもの)や情報公開などが挙げられている。現代において参加型民主主義を推進するのは、今日のリスクが決定/非決定の差異に基づく立場の違いによってコミュニケーションにおけるパースペクティブが異なり、この差異が社会的コンフリクトを生じさせていることに関わっている。
 またリスクとは未来における損害の危険性のことであり、ある決定をする際にその決定がもたらすであろう未来を予測できるか否かは、その決定するかしないかといった選択にの際に発生するものである。そして、未来の損害が予測できるかできないかといった事態は決定の際の重要な鍵となるだろう。
 未来を予測できるかできないかといった、知/非知(特定化された非知/特定化されない非知)の差異は、リスクにおける決定/非決定(被影響)に大きく関わる。未来に大きな被害が起こることがわかれば、その被害がおこるであろう決定に否定的になるのは明らかである。それゆえに、決定権をもつ側は情報をある程度隠蔽もしくは操作しようとするだろう。しかし過去の環境問題や医療問題の事例を見れば明らかなように、こうした隠蔽は未来によって暴かれ大きな損害(信頼の喪失などもふくめ)を招いた。こうした歴史的背景を元に、今後この様な事態が生じないために情報公開が求められるようになったと考える。情報公開によって、決定過程に参加できない者も未来における被害の可能性を知ることができることによって一方的に(決定に参加できずに)被害を被るかもしれない危険な状態から、リスクをリスクとして承諾したうえである決定に賛同できるようにすることが期待されているのだろう。参加も情報公開もこの意味でリスク・マネジメントの一手段であるということができる。
 しかしルーマンは参加型民主主義や情報公開が果たすであろう役割にある程度は期待し、その成果も認めているものの、それと同時にそれ以上に参加や情報公開がもつ危険性を指摘している。彼はハーバマスの合意に対する批判と同じやりかたで、これらに対し警告をしている。分かりやすく言えば、参加が正当化のための道具となること――ある程度参加が達成されていることによって、この決定は正当性があり妥当である決定であると環境(外部)に対して説明がなされてしまい――参加への期待や信頼によって参加が正当性を持ち決定が妥当性をもつことを危惧する。つまり参加が一つのシンボルとして機能すると多くの人の声や少数の声を聞くなどの、当初参加が理想としていたであろう理念は働かなくなり、その参加に参入できなかった者たちの声が排斥されることが危惧される。どちらかといえば今まで決定に参加できなかった者たちのためである「参加」が、既存の決定権をもつ者たちの決定を正当化するための道具として利用されてしまう恐れが、参加のシンボル化にはあるのである。
 参加民主主義には私も期待しているのだが、いくら参加といってもすべての者があらゆる決定と参加に加わるわけにはいかない。いくら参加を促したとしても必然的に決定/非決定いう差異が生じてしまうのは明らかであり、今まで解決を目指していたリスク問題は姿を変え別のリスクとして現れる。しかし参加がシンボル化するようになると、参加民主主義にも潜む決定/非決定という図式を覆い隠すことになり、この隠蔽によりリスクは増大することとなるだろう。そして未来において参加民主主義への信頼もまた喪失することになる。
 
また情報公開は、公開することにより新たな混乱の火種になってしまったり、公開しないことにより人々の信頼を喪失させるなどというリスクがつきまとったりする。今日の決定/非決定におけるリスクにおいて、非決定者・被影響者の側は情報の開示によって得られた未来における損害の可能性に、さらなる不安を抱きパラノイア的に全ての危険を排除しようとする傾向があるとされている。これによって、為されなければならない決断の多くがなされずに「決定しなかった」という決定ばかりなされる。絶対とは言い切れ無いが、この状態が続くのは健全とはいえないだろう。そのため情報公開もまた慎重である必要があるとされる(行政とかそちら側からの意見としてであるのが強いと私には思え、この批判は少々物足りないのではないかと感じている)こうった理由でリスクにおける参加と情報公開は決定的な解決にはならないしだろうし、決定/被影響といった図式を崩すことにもならないだろうと考えられる。

 
 ルーマンの立場は以上のようなものであるが、一方で参加や情報公開がリスク社会の問題への対処方として成果を上げていたり期待されているのも事実である。小松(2003)によればそれは信頼の構築によるものだと言う。
 参加民主主義や情報公開が上述した方法によって信頼の構築に繋がるのは理解していただけると思う。ただ、この信頼の構築はどちらかといえば既存の決定側への信頼の構築に関わるものである。今日のいわゆる具体的な物事を論題としたリスク・コミュニケーション論はこうした信頼の構築の技法を説いていると考えられる。
 信頼とは、何ものかに対する信頼であり、(相互行為としての)コミュニケーションにおいては、相手が私を信頼しているだろうことを信頼できることによって、コミュニケーションは円滑に作動するというのが彼の持論である。ただ、伝統的な小さな村での生活と違い、近代化し機能分化した社会においては人格への信頼だけではなくシステムに対する信頼である「システム信頼」があらわれた。ルーマンのいうシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアに対する信頼のことと同意義と捉えてもいいだろう。たとえば貨幣というメディアに対する信頼は、そのまま経済システムに対する信頼となる。
 システムへの信頼は、メディアを介した信頼の信頼となる。たとえば、小松を引用すると「貨幣への信頼は、自他のやりとりの中で、両者以外の任意の第三者が、ある紙幣、ある金属を、一定の価値を有する貨幣として受容することを、相手たる他者が信頼しているということを、自分が信頼するときに、貨幣は貨幣として流通する」
 何者かの信頼を信頼という形態ではなく、何者かが信頼している何かを私も信頼するということによりシステム信頼となるのである。私が、ある真理を信頼しているだけではなく、匿名の第三者がその真理を信頼し、他者もまたその真理を信頼していることを私もまた信頼する―その時、私はその真理を私以外の他者に真理としてコミュニケーションできるようになると考えられていう。(シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアについての細かい話は省く)
 こうしたシステムへの信頼は、そのシステムがもつ機能に対する信頼であるのだが、この機能が信頼に足るものかどうかの確認・チェックは専門化していく。例えば科学の領域における真理などは、最早外の人間に判断はできない。それゆえシステム内の専門家が当のシステムの信頼性を確認することとなる。つまりシステムに対する信頼には、システムの信頼性の確認をしていることに対する信頼も含まれる。
 
 リスク・コミュニケーション論における信頼の構築とは、システムに対する信頼の構築を目指したものである。決定/非影響の間にある決定過程に参加できない者たちとのコンフリクトの回避・調整を目的としたものがリスク・コミュニケーションといえるだろう。そして、決定者もしくはシステムの側はコンフリクトを回避するために信頼を必要とする。システムに対する信頼が維持されているならば、そのシステムの決定に対する信頼も得られることによって、決定への非参加における危険をも問題視されることなく円滑に進められるようになるからである(更に信頼がある方が時間的な猶予もあるとされる)。小松によれば、「そうした『信頼の技法』として重要になるのが、情報開示という戦略であり、情報開示が有効であるのは、密室で決定が下されたわけではないという印象を人々に与えるからであ」り、ルーマンはこうした信頼の技法を批判している。 
 
 リスク・コミュニケーション論における信頼の技法によって構築された信頼は、社会的に得た信頼によって決定/非決定の間に生じるコンフリクトを回避することには成功するだろうが、しかし当のリスクを解消できるかどうかはまた別の問題である。また、信頼の構築が持つリスクは隠蔽される。リスク概念の際に述べたように、リスクは絶対的なものではなく、ある決定/被影響の間にあるコンフリクトを解消したとしても、その解消によって新たな決定/被影響におけるリスク/危険が発生すると考えられる。しかし、信頼によって正当化された決定過程は、ある一点における決定/被影響を解消したことによって、その他の決定/被影響を隠蔽することに成功してしまう。リスクの対処方であるとされる信頼の構築が、同時にリスクを再生産する事態に陥る。
 このリスク・コミュニケーションは、ある一つのシステムを問題とした場合には十分有効であろうし、実際成果を出している。しかし、現代のリスク問題のように一つのシステムの範疇を超えたリスクに対処しなければならない場合はどうなるだろう。参加や情報公開も用いて得た信頼は、そのシステムが問題とするリスク・コミュニケーションを円滑にするだろうが、それ以外の視点や影響がある立場に立つ観察者からはどうだろう。おそらくはリスク/危険の関係性は解消されずにコンフリクトが発生する(可能性がある)と考えられるだろう。
 リスクは必然的に決定/非影響という差異を発生させる。たとえある観点からみた(ある決定/被影響)リスク/危険の間にある差異を(信頼を用いて)問題ないものとして処理できるようになったとしても、別の観点からまたリスク/危険の関係が発生するリスクは不可避なのである。その事実を隠蔽してしまう信頼の技法と、そのための手段となる参加と情報公開をルーマンは批判する。

 ではルーマンは何に解決を見出すのだろう。小松によれば「互の立場放棄を教養せず、一方が他方によって互いに説得されずに進捗する意思疎通という政治文化の成熟に、期待をつないでいる」*1らしい。(この政治文化の成熟とシティズンシップ教育を私は結びつけるつもりである)
 彼は相手を説得させ合意にいたらせ、同質性によって成る秩序を良しとはしていない。逆にそのような事態は一時的には効果があるだろうが、同質性を重んじるばかり当該システムにとって都合の悪い問題の隠蔽などが生じ、逆に大きなリスクを背負うことになるだろう。大切なのは「市民的平和という最小限のもとで、多様性を保持すること」である。真理と定めて、コミュニケーション的行為に基づいた対話などといった一つの方法に拘ることによって多くのそこに参入できない者たちを排斥するのではなく、「その場その場限りでのコーディネーションこそが、重要」なのであるとしている。

*1:リスク社会のルーマン 76