社会における恋愛について

 恋愛とは何であろうか、歴史家シャルル・セニョボスによればそれは12世紀に発明されたものであるとされている。
 そもそも恋愛と結婚という二つが結びつきは現代においては至極自然なことだと思われるけど、この両者が結びついたのは近代に入ってからのことだった。それ依然には結婚とは個人的なものではなく社会的なものであり家と家との間で取り結ばれるものであった。そして、そのような封建的な時代にあって恋愛は妻や夫以外の異性と愛を交わすロマンスのことをさしていたと言われている。そのような宮廷内恋愛が盛んであった南フランスでラテン語ではなくロマンシュ語で書かれた恋愛物語は人気を博し恋愛物語=ロマンスとして今日にまで使われるようになったらしい。
 このような奔放な肉体的な快楽を求め、低俗ともされた恋愛物語は時代がたつにつれて少しづつその姿を変え、崇高な精神的な愛を求め称賛する物語へとなっていった。有名なところではトリスタンとイゾルデのような騎士とお姫様の間の恋物語りに―立場の違う、つまり階級のことなる二人が恋に落ちるが困難な壁が立ちはだかりそれを越え二人は高潔な愛を手に入れる云々という形が出来上がっていく、そのもっともなものがシェイクスピアロミオとジュリエットであろう、二人は愛は家の前に悲劇に終わるがその悲劇により、精神の高潔さと愛の美しさはより高められる。こうして恋愛は個人と自由と社会的な因習といったテーマと強く結びつく、この形は現代の恋愛物語にまで引き継がれている。
 さて、このような形の恋愛が貴族から産業革命によって力を得たブルジョワの間でも読まれるようになるとなんだかんだで、個人主義と恋愛そして自由な結婚という価値が醸成されるようになった。この恋愛結婚というのは近代における産業社会と上手いこと結びつき大きな広がりをみせる。
 つまり産業化によって封建的な地域社会は崩壊し人々は都市へと流れでる。生産手段は家庭から切り離され、男が工場で働くようになると家庭仕事は女のものとして分業化が進んだ。こうした性別分業化と近代産業社会を支える役目を恋愛結婚物語が担うこととなる。
 その近代化を支える恋愛結婚物語は小説というメディアによって人々に供給され、小説の普及とともに、結婚の動悸として恋愛が不謹慎なものでなくなった―18世紀のことである。
 こうして恋愛は既存の封建的な制度を破壊する情熱とも、体制適応を志向する従順な市民を生産するためのものともみなされるようになる。この時代の恋愛についてギデンズは、キリスト教の倫理観と結びついた―情熱的欲望は理性によってコントロールされる高潔を描いたものであり、未来志向のものであり、生きる意味を失った個人に恋愛を通して物語を与えたとみなす。そして恋愛物語によって獲得される男と女によって形成される親密圏は近代社会を成り立たせる一員として機能した。(ただこのような恋愛感もゲーテの若きウェルテルの悩みの登場によってその姿を変化させる、つまり恋愛における感情的な情熱が道徳的にも許されるものとなり、自殺もまた肯定的に描かれる)

 それでは日本において恋愛はどのように扱われたのか、太宰が西洋的な恋愛にたいして懐疑的であったのは広く知られていることだろう。そもそも恋愛という語は1887年の仏和時点でamorの訳語として愛、恋愛が初めて見られた。この恋愛というのは日本における不潔の連関に富める通俗的な恋とは違うものとして当てられた言葉である。やはり太宰が恋愛を訝しんだように日本における恋愛とは高潔なもの清く正しいといった価値観が込められていたようだ。ここで日本にも西洋的な心身二元論が輸入され精神が肉体的欲求をコントロールする恋愛が高潔なものとして輸入され、心と身体が分けられていない恋は近代化のなかで否定されるようになった。そして明治30年、1897年ごろとなると恋愛と結婚の結びつきは一般的なものとして普及し確立されていったらしい。

 しかしこの近代の成立を支えてきた恋愛結婚は女性の社会進出や個人化などによって、つまり近代化の徹底化によってその存続の危機に立たされているのは明らかだろう、出生率は低下し我が国の離婚件数も結婚件数を超えてしまった!らしい。このような事態に際して、どのような問題があり解決が求められるだろうか。私としては今まで恋愛結婚が社会の安定に果たして来た機能のオルタナティブが求められるべきであり、またさらなる分業化が進めば良いのではと考える。例えば生きる意味や精神的な高潔さなどはリアルの恋愛に求めなくても今ではアニメや漫画、またはネット内での擬似的な恋愛で代用可能であろう、機能的に等価値なら何も問題ないはずだ。出産やその他についてはここでは発言を控えるが、私としては恋愛という意味が今後さらに変わっていくんじゃないかなーと楽しみにしている