移住者に対する言語政策 メモ

「1980年代初頭から移民が急増したことで、多様な外国人労働者が話す言語が加わりました。日本語を母国語としない住民のコミュニティや学校の出現に伴い、地域では多言語主義への認識が高まり、単一言語国家という概念が揺らいでいます。日本で使用される主たる言語はもちろん日本語ですが、決して唯一の言語ではありません
すなわち、多言語コミュニティの存在によって均質な国という概念が揺らぐことで、言語にはどのような期待が集まるのか。そして社会が、政府の諸機関や学校(国の場合)、民間部門やコミュニティ全体の言語政策や慣行を通じて、この期待にどこまで応えられるのかということです。」
 日本では国が対応するというよりも、地方自治体が外国人にたいする言語問題のニーズに対応してきた。一応国もJSL第二言語としての日本語)を設置していますが、メインは地方自治体はNPOなど市民団体が果たしている
 外国人住民の統合は社会に取って重要であるのはもちろんである。そのため、ここにおける言語の役割や何が期待できるのかを明確にすることは不可欠である。言語政策は言語の多様性をどこまで認めるのかという点でも注目される。
日本の現状はこれまで同様、国の結束を固めるために言語的同化というものを進めている。(19世紀末にはアイヌや沖縄人に日本語教育の義務化)
 しかし2009年の金融危機によって苦境に陥った外国人のため多言語ウェブ・ポータルを開いた。これは移民の支援などに前向きな姿勢とも評価出来る
「当面の緊急課題は、日本語の重要性を維持しながら多様性にも対応できるようにするとともに、外国人児童生徒が一方で日本語を習得しながら教育内容にもつけていけるような政策スタンスを構築することです。これは、短期的には教育における言語政策(language-in-education policies)の再検討であり、長期的には、国のアイデンティティにおける言語の位置づけを改めて問い直すことになります。」


フランスの場合
 二次大戦以前はフランスへの移住者はポーランド、イタリア、スペインなど中心であり同化主義―フランス人と同じ言語政策を実施しており、移住者に対する特別な措置などは施されていない。そして戦後経済成長のなかでマグレブを中心とする地域から労働力を輸入、移住者への言語政策は70年代以降に本格化する。
 現在問題となっているのは、移住者の第二世代による家族呼び寄せ―とりわけムスリムはフランス内で配偶者を見つけられず、呼び寄せる。トルコ人ノ場合ほぼ総てが一時帰国による結婚―呼び寄せであり、このままでは更に移住者が増加する。
 学校は国民統合の中心的な役割を果たす―共和制のフランス人は民族文化ではなく、政治的理念的な存在であり、学校での公教育を通してフランス人となる。
 2000年にロマ人に関する法律が制定−教育問題の発生、ロマ人の三分の一が非定住型であり、学校教育に対し不信感をいだいているため統合することが容易でない。
 1995まで国は成人移住者への言語教育には関わらず、アソシアシオンがボランティアにより実施。それ以降国はアソシアシオンに公的助成を行うようになる。さらに受け入れ政策の一環で「受け入れ統合契約」を提唱し、移住者への市民教育を推進。この政策によると移住者の受けたフランス語教育は帰化申請に役立つとされる。
 施策の現状は初等教育の移住者へ入門クラスを設置しフランス語教育を実施。中等教育については「統合クラス」classe d accueilを設置−教員は意欲あるものが担当し、特別の資格などはない。このクラスはゲットー化するのをおそれ期間は制限されている― フランスは国民国家の原理として多文化主義を認めていないので。
 移住者の出身国の言語文化教育は現在は公教育での外国語教育に統合する方向。


ドイツ
 労働力不足から受け入れた外国人が定住化、血統主義の傾向があり帰化が制限されており、ほぼ単一言語、更に少子化という点が日本と類似している
 人口減少による社会問題解決のため移民政策が打ち出される。その社会統合政策では、600時間の統合研修、移民の配偶者若者に対する教育の充実の2点が上げられた。しかしアメリカに対するテロやコスト問題の抵抗により移民はまた制限されている。
外国人労働者のためのドイツ語協会というものがあり、生活者としてドイツで暮らすために必要な語学力を高めることを目的としている。内容はレストランや工場で仕事のときや役所の手続きなど、具体的な場面の会話が中心。さらに協会は教材の判定基準を設定している。(ドイツにおける文化的なことや実情に関わる面、学習者のおかれている社会状況、ほかは言語学習的な側面)
 難民の受け入れの際に行われる社会統合事業の目的は、移民のゲットー化を防ぎ、ドイツ人社会と移民社会の二重構造化を避けることである。この事業をとおして援助することで、彼らがドイツ社会に適応し社会の一員として自立した生活を送ることを要求する。これは公的なサービスに勤務するドイツ人にも異文化トレーニングが課せられ、ドイツ人側にも意識の変化を促すよう事業も行われ双方向性が見られる。(一方的な同化政策は困難だーという考えに基づく)ある西部の州でも双方向的な統合が目標とされている。


英国
 英国内に多様な言語が混在するが、それらは重要視されず、実情についても十分に把握されていない。従って移民の言語教育も、そのコミュニティー自信に責任が委ねられ、政策支援は無いのが現状。一方、エスニック・マイノリティ児童の学力低下がっ国家全体の教育水準を下げることを政府は懸念。だが、英語至上主義的な風潮である―移民の規制の一手段ではないか


ノルウェー
 高福祉国家では移民のinclusionとexclusionが厳格に行われる。 それは一端受け入れられた移民は手厚い福祉を享受できるが、それは高コストなため、受け入れの際の審査が厳格にならざるを得ない。
 そのノルウェーでは06年国籍法が改正され国籍習得にはノルウェー語の学習が加えられた。国籍習得には無償の300時間のノルウェー語と社会に関する学習が必要。
 以前は3年間の居住で永住権や、参政権などかなりリベラルである。これには大陸諸国にくらべ移民問題が遅く生じたのが効果的に働いたのかもしれない。移民は社会福祉の枠組みの中に入れられ、ノルウェー語を話せないので能力障害者として福祉の対象とされた―こうすることにより移民の統合を目指した。移民を福祉の対象とし母語を維持する言語権を含めた政策が行われた。
 それがなぜノルウェー語学習の強制政策が打ち出されたか
EUの方針が、人道的見地から移民を受け入れ積極的に統合する様見える一方、言語の壁による移民排斥という解釈もあり、その影響があるだろう
 移民政策は19世紀では同化(assimilation)から、二次大戦後は多文化主義や統合integrationへと移行してきた。著者によるとまず、入国と滞在の可否における包摂と排除があり、つぎに多文化主義と統合の第二の分岐があると分析している 
 言語政策というものは本来は文化的なものであるはずが、言語習得の強制という形をとると、移民の包摂と排除の選別手段として用いられているようになる―これは宗教や生活習慣という他の文化政策ではありえない得意なことだ。
 それではノルウェーにおける言語政策の転換は包摂の後の統合を目指すものなのか、排除を意図したものだろうか。
 EU加盟国は移民政策で90年代ころよろ共通政策を取り始めておりノルウェーも影響を受けているのだろう。また新右翼との関係も考えられる。

 ノルウェーのような高福祉国家の言語政策においては統合について検証する必要がある。高福祉国家は成員の相互扶助という社会的連帯によって維持される。ならば、ノルウェーの転換は言語を通してノルウェー人と移民との再統合を目指したものであり排除とはことなるのではないか。

S・サッセンはグローバル化にともない、移民政策を決定するのは国家から徐々にEUの様なトランスナショナルな機関に移管されつつあるとする。またグローバルに対向する新右翼の流れ、この二つが潮流がある
 
 現在西欧の多くの国が移民に対し自国語の習得を求めている(永住権や国籍習得と絡め)。これは労働市場に参加させるのが主な理由であろう。 EUは人道的見地から域外の移民の社会・経済的統合を促進するよう働きかけている

それではノルウェーの言語政策はどうなのだろう、EU加盟国は確かに移民政策の見直し共通化を図っているが、その実態は統合を目指すものではなく、域外からの難民や不法入国者を抑制する目的から始められたものである。シェンゲン協定などは典型例である。―各国の言語政策は移民の人権擁護にみせかけた特定の移民のみを選別して統合し、それ以外は排除しようとする選民的移民政策の手段として用いられている
 排除の性格が強いのはオランダ・ドイツ・オーストリアである。これは求められる教育費や語学レベルの高さや、永住権などのハードルの高さから
 大陸側は言語政策により包摂したはずの移民でさへ統合と排除に分割され選別的移民政策がとられている。一方イギリスやデンマークノルウェーは言語政策による選別は行われていない

 新右翼政党による政策転換というオランダやデンマークの例があるが、ノルウェーの言語政策転換は労働党政権時代に開始されたものであり、その内容からもヨーロッパに吹く新右翼の流れとは一線を画すものであると考えられる。

 まずノルウェーの糖業プログラムはノルウェー語、ノルウェー社会に関する知識、仕事に関連する語彙や職業訓練などである。
 一番注目すべきは参加者は毎月財産に関係なく受講手当を給料のように受け取れる点である。これはプログラムに出席させるためのインセンティブであると同時にプログラムへの参加は権利であると同時に義務であることを意識させ、就労と経済的自立への動機づけを与えるためである

ノルウェーという高福祉国家は「すべての人々を統合し、平等化を促進することを目標としている」。高福祉国家にとって就労は権利であると同時に義務であり、よりおおくの人が労働し税を納めなければ高福祉制度を維持することはできなくなる。
 とすれば、言語政策の転換は、移民を労働市場に取組、福祉の受益者と同時に納税者として福祉の提供者とするための政策ではないか

ノルウェーの言語政策の転換を把握するためには社会民主主義について知る必要がいくらかでてくる。福祉国家の類型論は北欧の高福祉国家と米国の市場原理を優先させる福祉国家を両端におく、モデルとしては「残余的モデル(residual moderu)」と「制度的モデル(instituition model)」という両極端のモデルを設置しその距離を測ったり予算の福祉部門への支出の割合を比較するという方法がある。
 残余的モデルとは、福祉を市場のメカニズムに任せ、自活出きないと判定された人のみを社会福祉の対象とするものである。制度的モデルとは、福祉の全責任は国家が負うとして、金銭だけでなく医療、教育、就労の機会などいっていレベル以上の生活環境の提供をも福祉の範疇に含める。
 こうした分類にエスピン=アンデルセンは「福祉レジーム論」という新しい類型を提示した。福祉レジーム論とは福祉制度が国の労働市場や伝統的社会構造や家族制度の維持や解体に、どのように影響しているかに注目し、福祉国家を分類する。このときメルクマークとなるのは、労働者の「脱商品化」と、福祉の受給者の階層化の程度である。労働者の脱商品化とは「市民が仕事、収入、あるいは一般的な福祉の受給権を失う可能性なしに、必要と考えたときに自由に労働から離れることができる」つまり市場に依存しなくても生活していけることを意味する。脱商品化とは労働条件を市場原理に任せず国家が労働市場へ積極的に介入することによって、労働者の社会的権利を市場原理から守ることである。
 福祉制度が近代以前から存在している社会階級や家族制度などの階層システムの固定・解体にどの程度寄与しているかを階層化は問題にする(福祉を 基本的に市場原理に委ねれば、福祉制度は階層の固定化にも解体にも影響を及ぼさない。つまり再生産される。逆に階級に関係なく国家が普遍的な社会保障を提供すれば、格差は縮まっていき階層システムは解体へと向かう、ただし中産階級の同意をどう取り付けるかが鍵となる)
 アンデルセンは欧米先進国の福祉制度を分類すると「自由主義ジーム」「保守主義ジーム」「社会民主主義ジーム」である。
 ノルウェー社会民主主義ジームであり、中産階級と労働者階級を融和させ「社会的連帯」の構図を図る福祉政策がとられる。完全雇用が目指されせっきょうてきろうう
 
 ノルウェーの法律では社会福祉の対象は国民ではなく、ノルウェー国内に滞在するすべての人々と定められている。そのためか、ノルウェー語を解さない移民は特別な福祉を受けるべき能力障害者とみなされたのである。移民がノルウェー語を解さないために福祉の受給対象とされた結果言語政策に重点が置かれることになった。その方法は二つあり、ひとつは無償でのノルウェー語の教育であり、もう一つは移民の母語を守る施策、つまり行政機関での通訳サービス、移民の母語による社会福祉に関する情報の提供、年少者の移民に対する母語教育である。非ノルウェー語話者でも病院や行政機関などの公共施設を利用できるようにすることに重点がおかれた。
 マーシャルはシティズンシップを公民的権利、政治的権利、社会的権利の3要素からなると定義した。社会的権利は「経済的福祉と安全の最小限の請求をする権利に始まって、社会的財産を完全に分かち合う権利や、社会の標準的な水準に照らして文明市民としての生活を送る権利に至るまでの、広範囲の諸権利のことを意味している。これと最も密接に結びついている制度は、教育制度と社会的サービスである」と定義されている。(マーシャルのこ定義がされたのは「揺りかごかから墓場まで」とされていた時代のもの)
 ノルウェーへの移民に対する態度が変化したのが1980年代後半に大量の移民が流入してきたことにより、移民の存在が社会的問題化し、政治のアリーナへと持ち込まれた
 社会民主主義ジームへの包摂と母語・母国文化維持という移民政策は移民の増加とともに決定的な問題をはらんでくる。母語維持政策は多くの移民のノルウェー語習得を妨げ、結果として移民を労働市場から排除してしまった。しかもその事実は手厚い保護によって隠蔽されていた。つまり移民の多くが失業し福祉の寄生虫となってしまったのだ。学校でも第二外国語としてしかノルウェー語を教育受けてこなかった移民の子も、低学歴であり、ドロップアウト率が高かった。つまり母語教育がノルウェー語習得を妨げ社会への統合を遅らせていたのである。そして難民たちもまた生活保護に頼ざるをえない状況だった
 充実した社会保障と行き過ぎた多文化主義によって社会保障に寄生する社会民主主義ジームの特有の下層階級となってしまった。社会保障に依存して生活するのもそれがノルウェー人なら当然の権利とみなされるが、移民の場合、多くが社会保障に依存して生活していることが明らかになれば移民はノルウェー人から寄生虫とみなされるこtになる。
 自由主義ジームは「受給者にたいして制裁を加え、スティグマ化する」。社会民主主義ではそれはないが、移民の可視性に社会保障への寄生が重なれば、スティグマ化はさけられない。
 言語権を含む社会権の保護を優先した結果「就労は権利であると同時に義務である」という原則が破られ、移民の階層化が進行すれば、社会的連帯が危機にさらされる。
 そして1990年代初頭ついに移民に対する言語政策は母語至上主義からノルウェー語優先主義へと転換される。これは移民を能力障害者とみなすのではなく、ノルウェー語を中心とする職業教育を施すと同時に労働市場への参加を促すという、移民に対する特別な積極的労働市場政策の一環としておこなわれた。また97年の白書では移民に対する平等な就職の機会を提供するため、特にノルウェー語教育と職号訓練に力をいれることが明記されている

 このノルウェーの政策転換を保守主義ジームの代表たるドイツと比較してみたい。ドイツでは移民へのドイツ語教育プログラムが法案として提出されるまで母語教育がなされていた。これは年少者の移民の出身国への帰還を奨励するため開始された。そのドイツが言語政策を転換したのは国内の労働力不足を補うためであった。ノルウェーの転換は労働力不足からではない。
 ノルウェーの言語政策転換以降、成人年少者を問わず、あらゆる年代で移民に対するノルウェー語教育が強化、ノルウェー語を第二言語とする方針が改められ、母語教育はノルウェー語を習得するための手段となった。また就学児童が移民のコミュニティー内だけで生活しノルウェー語の習得が妨げられないよう幼稚園へ通わせることも奨励した
 このようにノルウェーの言語政策の転換は、積極的労働市場政策の一環であり、明らかに社会民主主義ジームの原理に基づくものであった。この政策は移民を福祉に寄生する社会的に周辺化された状態から脱出させ労働市場へ統合し完全雇用という社会民主主義ジームの原則を実現することを意図したものだった。

移民への流入制限の失敗がデンマーク人のゼノフォビアを煽り2001年には新右翼の意を汲んだ形での移民政策を成立させる起因になった
 福祉国家はその包括度が高まるにつれ、包摂と排除を厳格化せねば制度自体が危機に陥る。しかしデンマークは適切な時期での厳格化に失敗した。これがノルウェーデンマークの差を分けたのだろう
 本来ならば「言語権」はすべての人が享受すべき権利である。言語権の剥奪は、移民を受入れ国に束縛することをも意味する。ならば、これを奪った国家には、移民にその国の住人と同等の市民権を補償する義務が生じるはずである。ノルウェーの政策転換は、このような国家の責任を確実に実現できる社会民主主義ジームだからこそ移民の真の統合を導くものになったのではないか


合衆国における例

 1998年6月カリフォルニアにおいて「提案277号子供達のための英語」に対する州民投票が行われた。この提案は「バイリンガル教育法(1968年)」が成立して以来続いて来た梅林がある教育の廃止を是非を問うものであった。しかしその目的は60年代以降合衆国で主流となった多文化主義を存続すべきか否か、すなわち合衆国への移民をいかにアメリカ社会に同化させるべきか、その方法を問うものであった。結果はバイリンガル教育の廃止が決定され、英語を使用して教育する同化政策推進が確認された。さらにこの提案に先立ち「私共の州を救え」も可決。これは不法移民が公共サービス・教育をうけることを禁止するものであった。
 1960年代の公民権運動の決壊、マイノリティーの社会的地位向上を目的とする政策があったが、1990年代になりマイノリティー保護に向いていた社会の風は逆風となりマイノリティ権利の縮小に吹き始めた。この論文は「英語公用語化法案」誕生の要因ならびにその目指すものを考察したい
 1604年頃にはインディアンは仏語、フランス人はインディアン後を学ぶこともあったが、清教徒到来によりインディアン数そのものが激減、インディアン後を話すのも禁止される。合衆国成立後もワスプの価値観を教え込むため白人は教育という手段を選択、英語だけを使うことを強制した(同化政策の一環)18世紀ペンシルヴァニアに住むドイツ系の子供たちは用意に英語を自分たちの言語として取り込んでいった。この傾向はドイツ語の乱れ喪失の原因となりドイツ文化ひいてはアイデンティティの喪失を引き起こす可能性があった―そのため彼らは学校や教会などの場で積極的にドイツ語の使用に勤め、イギリス人との接触を避けた。これはかなりの危機感を抱かせることとなる。1750年ペンシルヴァニア大学の前身校の初代学長はドイツ人が多くくらす地域に英語学校を設立したり、契約書などに英語を用いる必要性を説いた。この考えは現在の「イングリッシュ・ファースト」と似通っていた。かれは英語を知らないことは知性の低さを明示することと考え、ここにもワスプ的な態度が垣間見れる。
独立後、合衆国の指導者たちは英語以外の言語の使用を奨励好意的に捉え、様々な言語を話す人々がともに生活することが合衆国の長所と捉えていたようだ。これは英語以外の外国語の使用を禁止すれば新政府への反対運動が起こる可能性があること、様々な言語で新政府の理念を伝達できることが有利だと判断されたのだろう。
1841年からの10年間は移民の数が2倍になる。この急激な増加は合衆国国民の不安を煽りネイティヴィズム誕生の要因となり反外国人を掲げるノー・ナシン党の結成へと連鎖した
1910年にはドイツ系アメリカ人は合衆国で英語以外の外国語を話す最大集団となり、ドイツ語での出版物も増えていた。しかし第一次世界大戦の勃発とともに、反ドイツ感情が前例のない言語規制のうねりとなった。戦争をきっかけとして「同化」という今までに無い脅迫感となるが、赤の脅威がアメリカ国内で醸成され始めるとドイツ系もワスプの一員とみなされるようになった
 英語は公立学校や私立学校でも授業の言語で用いられるべき唯一の言語である、公の場は英語が使用されるべきだ」などというネイヴィスト運動を目覚めさせた。その結果1917年には移住者に「読み書きテスト」が実施された。これは移民の制限のためであり、以降さらに厳しい移民法が成立することになる
1920にはネブラスカ州で最初の英語公用語化法が議会を通過、そのご1998年までに25の州で英語を公用語とする法律が制定された。
 1920年年代の言語政策は英語重視の単一言語教育からバイリンガルへとなるが、これは建前だけのものとなる。このような中で転換期が二次大戦での必要性と、ソ連が言語教育に時間を費やしていることがあげられる
 1964年には公民権法案、翌年には新移民法が成立それ以降、移民は増加し、それ以上に英語を母語以外の言語を母語とする人口は71%も増加、スペイン語母語とする人を筆頭に増加し、60年代以降の社会政策の中心を占めたマイノリティへの優遇政策の実行は、それに反対する運動を誕生させる
 1981年バージニア州が最初に英語を州の公用語と定める。ヒスパニックが一番恩恵を享受しているバイリンガル教育はレイシズムを助長し国家統合に役立たず中止すべきという主張も出てくるUSE創設者の主張

 白人の優位性が失われるような社会誕生を阻止すべく、それまで認めていた少数民族の権利を規制し始めた。その流れの一つがUSEや英語公用語化運動である。この支持者は「英語は国家の統一シンボルそして合衆国安定の基礎であり、移民が英語に熟達すれば経済的に楽になり移民に費やす費用を削減できる」としている。「英語の知識が愛国主義と結び付けられたのはゼノフォービアxenophobiaの時期だけで歴史的には英語以外の言語によって政治的分裂が起こった証拠は無い」と述べている。英語が日常生活に必要なら、国家命令が無くとも自ら勉強するとういのは自然の理と考える。また移民の世代交代が起これば、移民先の言語を母語として使用する世代が出現するのも明らかである。「文化的同化論者は英語を学ばないとか同化しないことでラティノ社会を非難するが、15年合衆国に住む移民は定期的に英語を話し、通例10年以内に問題なく英語を読むことができる。そしてメキシコからの移民の93%は英語を学ぶべきだと考えている」という研究結果がある・いずれも英語公用語化を法律に明記し、英語学習を強制する必要は無いと主張する。
 英語公用語化は統一を図るため、移民に社会進出の機会を与えるためなどの美辞麗句を並べるが、一連のネイティヴィズムの一つであり言語問題に姿を変えた反移民のうねりの一つである。クリントン政権下の経済の好況でも移民規制は進み、移民問題が経済問題を超え、人々の心理の問題にいこうしている
少数民族に対する偏見の否定、平等を求める小数民族の要求に対する敵意、少数民族んおための特別な恩恵に対する憤りに特徴づけられる新しいタイプの人種差別が、白人の人種的卓越性の主張、公共の場所などで許容されている人種隔離、雇用の場での正当化された人種偏見に特徴を持つ旧タイプの人種差別に取って代わりつつある」とジェームズワスラーは心理学者の言葉を引用し、 英語公用語化運動は、新しいタイプの人種差別といってもよい