シチズンシップに関するメモ

論の目的
 政治的リテラシーの育成を目指すシティズンシップ教育のあり方を、英国の教科シティズンシップと日本の社会科との比較を通して考察することにある。
成果
 「批判」を中核的方法概念として政治的リテラシーの学習を、活動的シティズンシップを通して社会的有用感の育成を目指すものと、リテラシーそのものを問い直すメタ政治的リタラシーの二つを構造化して示した。
 政治的リテラシーにおける理念的枠組みとして、環境的シティズンシップの検討を通して、伝統的な「自由主義的シティズンシップ・共同体主義的シティズンシップの他にポスト自由主義共同体主義的シティズンシップを構想し「批判」をこれらの間の相互批判として示した。

近年シティズンシップが注目を集めているが、その心地よい言葉とは裏腹に具体的なことはあまり論じられていない。そこで、筆者はシティズンシップ教育と社会科教育の係わり合いを、政治的リテラシーに焦点化して実際の授業のレベルも含め考察する。

シティズンシップ教育とは、子供たちが知的で思慮深く、責任感を有する市民となることを手助けするために、現代民主主義社会を支える市民的資質としての知識と技能と価値を、自らの人生や学校や近隣、されにはより広いコミュニティに積極的にかかわることを通して学ぶ教育のことである。この根本には理念としての公正さやデモクラシー、行為の結果の予測としての責任感、意識としての他者への思慮深さなどがある。それらを背景にデモクラシーを実現するための知識・理解・技能や価値の学習が行われ、コミュニティの場で実践され、実践は責任感か他者への配慮としてフィードバックされ循環する。この循環を通して子供たちは社会的な有用感を身につけていく

シティズンシップ教育の根底には「社会的・道徳的責任」「政治的リテラシー」「コミュニティへの関わり」の三つの基本要素があり、これらは政治的リテラシーを通して相互に深く結びついている。
 知的市民性と活動的市民性の育成を通した社会的有用感の形成が英国におけるシティズンシップ教育の目標となっている
 政治的リテラシーとは、多種多様な価値と利益の間での果てしなく続く妥協の過程で求められるものであり、知識と技能と価値を通して公共生活に実質的・効果的に関わろうとする力」でもある。とりわけ「具体的な政治的知識や問題理解、活動方法などの市民的能力を育成すること」を重視した。

 英国シティズンシップ教育における政治的リテラシーは知識ではなく、公共生活への貢献と封建の方法についての学びであり、単なる政治的知識を身につけるというより広い意味である。シティズンシップを教える際には論争問題を扱うことが是非とも必要であり、多種多様な価値と利益との間でのぶつかり合いと合意や妥協の過程としての討論を組み込んだ学習は代替案をも含む「批判」となる。
 日本では社会科において「批判」を民主主義社会を作るプロセスであり同時に制度であると捉え、授業方法論的原理を「批判」においている。社会科シティズンシップ教育においても「批判」は授業構成の基本原理として尊重しなければならない。

 批判の二重構造
英国シティズンシップ教育における政治的リテラシーとしての「批判」がコミュニティへの関わりを前提にコミュニティに関わるための正しい情報の選択・処理を中心とした積極的な批判としての性格
たいして批判を授業構成の原理としている日本は、コミュニティに関わることを前提としていない。コミュニティに関わりやそれを支える政治的リテラシーも批判する可能性を含むメタ政治的リテラシーとしての批判となっている。
 この二つを意識的に区別することが社会科シティズンシップには求められる。

 環境シティズンシップ
(ドブソンは自由主義的・市民共和制主義的シティズンシップにおける権利と責任の違いを強調すると、市民ー国家間の互恵的な契約観に基づいているのを見逃してしまうとする)ポストコスモポリタン・シティズンシップは互恵性を前提にしない。
 ポスコモは「全人類を含む共同体」に言及し環境や接続可能性を想定しているので、未来世代・途上国・動物や自然を想定することが出来る。





環境は、環境という問題を世界規模で考え、それを意識として、己が世界の一員であることを自覚させ、身近な環境問題に取り組むことで、己が世界の環境問題に寄与できているという世界共同体的有用性を実感させる装置としても働くと私は思う。
何故近年、共同体主義的シティズンシップが注目を受けているのだろうか。それが私にとって大変興味深い関心ごとだ。


下町や村においては、無意識的に公共への貢献といわれるものが成されていた。しかし現代の社会ではそういった共同体的な自治・秩序・活性化機能が失われてしまい社会的な病理と見なされている。そのため、意識的・合理的に、そのような自発的な社会への貢献を教育によって促さなければならなくなってる。
しかしここで大きな問題が立ちふさがる。後期資本主義社会を支えてきた個人のライフスタイルなどのあり方は、町内会やご近所付き合いといったものを煩わしいとし、社会サービス等に一任している。この様な現代人のあり方を、教育というもので変えることは幾らかは可能であろうが、消費社会との軋轢が発生し、また別の社会問題を引き起こすこととなるだろう。 政治に焦点をあて市民教育を論じることは出来る。しかしそこに経済や、人々の生活という要因をいれると、ことはそう単純にはいかなくなるだろう。それとも、教育は理念として教育し、現実は現実だとダブルスタンダードを用いるのだろうか。

移民の増加などによる更なる流動化・移動性にって中間団体が不可能になるというのは早急で、その様な時代になっても今までとは違った形でのコミュニティやアイデンティティというのが出来上がっている、それらが更に加速するのではというのが昨今論じられてい