意味喪失 メモ 自律志向がもたらした脱魔術化によって生じた

意味の喪失とは何を指しているのだろうか。
端的に言ってしまえば、行為や体験に対する神による根拠付けが喪失したと言えばいいだろうか。宗教による統合力が近代の合理性により喪失、神が死んでしまったために生じたものだといえる。

社会の近代化と関わる意欲の減退(主体的動機の危機=Motivationskrise)

意味喪失(Sinnnlosigkeit)に関するウェーバの記述を引用する

現世は不完全、不正、苦難、罪、無常、そして必然的に罪責を負っていて展開と分化が進むにつれてますます無意味化していくほかない文化、そうしたものにみちみちた場所であって、したがって、それらのうちどの点でも裁かれるにしても、純倫理的な観点からするならば、その存在に神的な「意味」を求めようとするような宗教の要請に対しては、破壊されて無価値にひとしい姿を示すことにならざるをえない。現世の価値喪失は、合理的な要求と現実との、また合理的な倫理と一部合理的で一部非合理的な諸価値との衝突の結果であり、しかもこの衝突は現世に姿をあらわしてくる個別諸領域の独特な特性をそれぞれにきわ立たせることによってますます激化し、また解決不可能なものとなっていく

この様に意味が失われると、価値規範がもつ拘束力が低下し社会秩序の低下を招くと考えられる。また同時に統一的な意味が失われてしまったがために価値規範は合理的な正当化を必要とし、また統一的な意味が失われてしまったがために、ある価値規範はそのシステム内でしか効力を持ちえなくなる。また現代の社会では人は個人化され外的な根拠に拠って自己を規定することが出来なくなり、またある任意の行為一つも己で持って意味付けしなければならなくなる。


ハーバマス「近代未完のプロジェクト」を参照すれば

宗教的および形而上学的世界像によって表現されていた実体的理性が発展して三つの要因に分化してしまい、この三つは形式的な(論証による根拠付けという形式によるもので)ものでしかない。すなわち世界像は崩壊し、昔からの様々な問題は、それぞれ別種の三つの視点によって分けられてしまっている。その三つとは真・正当性(善)・美である。近代はこの三つの価値領域への分化がもたらされた。それぞれはそれぞれのシステム内部で専門化の仕事として制度化されるようになり、それぞれ固有の法則性(Eigengesetzlichkeit)を持つようになった。
 これにより他に囚われない強固な自立志向(Eigensinn)を展開させる各専門領域の文化と公衆のと距離が拡がり、文化的合理化に伴って生活世界は自身の伝統の持つ実質的な価値を奪われ文化的貧困化の危険が増大している。
さらに哲学者たちにとっても理性が細分化した結果として生じた様々な契機のどれか一つに信頼を置くことしかできなくなった。
 ウェーバーが見つめた学問・道徳・芸術への理性の分化は自律的なものになる過程なのだが同時に、諸領域が伝統の流れ(日常生活実践における解釈の積み重ねで自生的に継承される)から切断されってしまったことも意味している。
 モデルネのプロジェクトは行き過ぎた止揚(aufheben)のプログラムである。

ハーバマスはこの様な事態に対し語用論的普遍態を用い「真の合意」に至ろうとする。語用論的普遍態には発話行為も含まれ、発話行為はコミュニケーション型、事実確認型、表自型、規制型という4つの分類に分けることが出来る。この4つが素朴に妥当しているのであれば言語コミュニケーションは円滑に行われるが、いづれかが疑問視された場合われわれは討議に移り相互行為の回復に努める。

分化をウェーバーやハーバマスは以上のように捉えるがルーマンにおいては社会システムのサブシステムとして経済・法・芸術・愛などを挙げる。