パラドクス 私的メモ

社会システム理論の内部ではパラドックスの概念とそれに関連して脱パラドックスの概念に重要な意義が与えられている。
科学においてはパラドックスは拝辞されるべきであるが
パラドックスの問題や脱パラドックス化という問題が社会システム理論を理解するための決定的な鍵を提供する。
パラドックスは決定不能の状況に導くことである
パラドキシカルな発言は二つの価値を含んでいるが、どちらかをはっきりと排除してしまうわけにはいかない。パラドキシカルな発言の特徴は、二つの価値の間を揺れ動いて絶えず行ったりきたりしているために、一方の側に決定できないことにある。
パラドキシカルな発言は完全な記述を目指しているが、その発言は自分自身をその中に含めることによらなければ、こうした完全性に到達することができない。パラドキシカルな発言は自己準拠的な構造を持っている。したがって、その発言は自分自身にも当てはまる。
パラドキシカルな発言は対立項を含んでいる。だから、その発言はある区別を用いている。従ってパラドキシカルな発言は二つの条件、すなわち自己準拠と一つの区別の利用という条件に基づいている。二つの条件を正しく結合すると、非決定性とうい状況に到達することになる。

パラドックスは観察するシステムの問題に他ならない。完全性を目指すそれぞれの観察は、自己準拠的に自分自身をもそのなかに組み込もうとするやいなやパラドックスに陥る。観察を導く区別を観察に適用すると、決定不能の状況に至る。それぞれの観察は一定の区別に拘束されているが、その統一性を観察することが出来ない。観察は自分の観察を導く区別を観察しようとすれば、自己適用のパラドックスに陥る。
つまりどの観察もパラドキシカルに構成されている。パラドックスは観察者を動揺させ、ある価値と其れに対抗する価値との間を往復させる。
だがこのことは「規定可能性の喪失、更なる操作への接続可能性の喪失」がパラドックスの出現と結びついていることを意味している。
接続可能性が保障させるのは、その基礎にあるパラドックスが解消され見えなくなるときだけである。脱パラドックス化はこのことを意味する。
ルーマンによれば、この途上で規定不能な複雑性(二つの観察値の間での逃げ道の無い揺れ)が規定可能な複雑性(接続可能性の保障)へと転換される。観察者は、観察の基礎にあるパラドックスを次第にぼかすことによって操作を継続する。問題は、これがどのように行われるかである。
「第二次的観察者の立場をとれば、第一次がどの様に振る舞い、どの様にして彼のパラドックスを見えないようにし、どの様にしてパラドックスを区別によって置き換えたり移動させたり、規定不能な複雑性を規定可能な複雑性に転化し、情報の負荷を有限にするのかを同時に観察することが出来る。そのとき、第二次は同じことをし続けるのでは決して無い。しかし、彼は少なくともそれが可能なことを見ることが出来る。おそらく彼は機能主義者のように問題に対する別の機能的に等価な解決を探し出そうとするのである。