駄文メメモ

さて、これから何をしようか。
 例えばtwitterでチマチマ発言したように、ネット上における自我形成や個人のあり方、そこを基としてコミュニケーションなどを見ていこうか。とか考えているがグダグダになってしまいそうだ。ブランドとネットにおける自我形成云々を絡められたら〜とかアホなことを思っている
それよりも、twitterは公共圏である的な発言に刺激され以前より関心があった、公共圏としてネットの可能性を模索していったほうがいいだろうか。しかしその可能性は、可能性でしかない。
 ブログという可能性を未だ信じてここで書き続けるべきだろうか。そんな希望だのなんだのと煩いことを考えずに書いている人が殆どであり、私もまたその一人だ。
 
 はっきり言ってしまえば、公共圏・公共性というものにもほとんど期待などしていない。ハーバマスのいう公共性というのがブルジョワ革命にどれ程貢献してのか私は甚だ疑問なのだ。
そして今の我々に革命が必要であるのかどうか、私には分からない。
だから、ネットが公共性としての可能性があるとしても、それはどれ程の価値があるのか私には判断できない。
ネットというのは反体制で草の根運動云々と、公共性を謳うものは語るが、しかしそれは一時のお話で現代の話ではない。多くの人間はネットというものをそんな大層なものとしての認識はない、一部エリートが騒いでいるだけだ。ともいえてしまう

「公共性」(それは、もともと英語でいう「パブリックネスpublicness」の訳語です)という概念の核になっている意味は、「すべての人々に開かれて議論されること、すべての市民によってオープンに議論され決められるべきこと」です 
http://www.nulptyx.com/pub_publicness.html

 ネットは様々な言論、もちろん政治的なことも含めた多くの話題に溢れていて、そこには様々な背景を持つ匿名度の高い人々が話をしている。この様な現状は歓迎されるべきなのであろう。しかし、私はこの場所が、体制側に利用されるのではないかと、危惧している。そのことを書くのは大変骨の折れる作業だろうなー 
 
 ネットは新たな共同体や繋がりライフスタイルのあり方を提示しているというのは一つの事実だと思える。公共性云々といった話よりも、こんな人のあり方から世界や社会は変わっていくのかもしれない・・・それが良いか悪いかなどとは別問題だが。

喩えネットが公共圏だとして、その可能性が十全にあるとしても
私などの凡庸な人間になにが出来るというのだろうか。という子に対しては
話し合いに参加するということこそが、己の意見を提示し且つ相手の話を聞くことこそが大事だと言えばよいのか
分からないなー

 私は英雄などではない。現代の社会的な価値や常識から逸脱してもたいした意味にはならないし、それを否定して何にもならない。暴力による革命だ!という発言には迎合できない
だから、私ができることなど極限られた範囲のことしかできないだろう。私はどうすればいいだろうか。
このまま学問の道を愚かにも希望を持ち進むということもできる。しかし私はここに限界を感じている。
学問の意義というのはこれでもなんとなく理解しているつもりだが、しかしこのまま進んでもエリート的にしかならないのではないか。それに、私が、この私がそこに進んだとして、どれ程の意義があるだろうかと疑問に思ってしまっている。

のわのわのわ、やっぱり行政系とかに進むのが一番てっとりばやいのではないかとか思ってしまう。