《オーストリア学派の特徴》2

経済学勉強中っす><


限界効用学派の理論の特徴として、主観(経済的評価の担い手としての人)と客観(経済に対して外から与えられた与件としての物)とが載然と区別併置され、その対立が観念に絶対化される。評価の対象たる財は、経済に対して外から与えられる単なる与件であると考えられ、経済的な評価の作用は、具体的な身体をもたない単なる主観の働きに帰せられてしまう―という一つの問題が生じる。
 次に問題となるのは、このような主観的価値論をもってして、交換社会そのものの分析が有効に行われるかどうかとうことです。初めに結論から言うと、この試みは出発点において挫折してしまったと言えるでしょう。なぜなら、限界効用学派は先ず個人の主観的な効用から出発し、効用逓減の法則を導き、与えられた財の数量から限界単位の効用、限界効用を確定し、この限界効用が価値に等しいとする。しかしこの場合、価値は先ず持って一財の主観的使用価値であり、これは一つの財についての価値から始まって、沢山の財に対する価値、財世界一般に対する価値まで総合され主観的交換価値になる。そしてそれが、その財世界に対するところのあらゆる個人の、即ち社会の価値判断にまで総合せられて、客観的交換価値となる。それが価格であるという説明をする。この説明の総合せられるが常に機械的になるところに問題があるのだ。…異なる個人の効用比較は可能であるか、不可能に近い
 例えば、主観的価値説では、一方に小麦の所有者が小麦と布とに対して下す心理的評価があり、他方には布の所有者が小麦と布とに対して下す心理的評価がある、そしてこの二つの評価関係を、直接に関連付けようとするのだ。しかし異なる個人の心理的評価作用は、本来互いに無関係であり、その間には何の内面的な関連もない。従ってこの様な評価作用の成果としての価値も、本来社会的客観的なものではなく、個人主観的なものにすぎず。価格のような客観的社会的な現象を説明することは出来ない理論構造なのです。
 この困難は、価格の測定単位となる貨幣の価値の説明についてもあわられる。限界効用論の考えに従えば、100円しか持っていないものは100円を最高に価値あるものとして扱う、しかし手持ちが千円、一万円と増えれば100円の価値は逓減していくはずです。しかし現実においては100円の価値は100円であり一万円の価値は一万円であり、手持ちがどうあれ貨幣は客観的に存在し同一の交換価値を失うことはありません。つまり主観価値説では貨幣について説明できなくなってしまい商品には主観的価値説を、貨幣には客観的価値説をとらざるを得ないという矛盾した理論になってしまうのです。
 また、生産手段の価値に関連しても困難は生じます。この説では、財の価値はこれを消費する個人の主観的な評価に起因します。従って消費の対象とならない生産手段(設備や原料)は効用を持つことができないが、―生産手段を使って生産した消費資料の価値が間接的に帰属させられるという、帰属説をとります。だとすると、費用として犠牲にされた生産手段の価値と、生産の結果として得られた生産物の価値とが全く同一となり、そこに費用以上の剰余たる利潤の成立を説明できなくなる。利子についての成立も説明できなくなります。これを受けて、現在の財は一般に同種同質の将来財より高く評価されるので、現在の消費を差し控え他人に資本を貸与するなら、価値時差に応ずるだけの利子を要求できるという時差説を主張しましたが、現在の価値が将来のよりも高い事態は限定的なものなので、この説で利子の発生を説明するのは困難です。
 本来、物の関係に現れた「人と人との関係」たるべき社会的交換関係を、個人についての「人と物との関係」と見誤り、人と物との対立を絶対化したところに困難が生じるのです。本来、客観的社会的なものでの価格現象の経験科学的な説明に躓き、個人間の効用比較という様な経験的には検証し得ない仮説をおかざるをえなくなったり。本来客観的社会的な貨幣価値の説明に窮して商品価格論では主観価値説を、貨幣価値論では客観価値説(貨幣数量説)という不統一に陥り。また客観的社会現象としての利子や利潤の説明を時差説や迂回説という誤った補助理論に頼らざるを得なくなってしまった。

この限界効用がどう克服されていったかについては、ローザンヌ学派がどう発展したのかに関わる。一般均衡学派の始祖ワルラスは、限界効用学派の一人として限界効用の概念―彼は希少性と呼ぶ―から出発して一般均衡理論を樹立した。しかしそれ以前にクールノーという人物がいた。彼は諸々の財が一定の価格で互いに交換されるという経験的な事実から出発し、これを数学的に表現分析し、この交換という事実の背後に何があり、何が原因としてそれぞれの財が一定の価格で交換されるのか、という説明を試みなかった。彼は「需要の法則」というものは、商品の効用の種類、それが提供しるい用益の性質、あるいはそれによって獲得しうる享楽の性質、国民の風俗習慣、平均的な富力、富の分配の態様など、およそ列挙することも測定することもできないような様々な精神的な原因によって影響を受けるものであって、これらの原因それ自体は経験科学として経済学で取り扱うことはできない。経済学の範囲内でできることは、雑多な原因が働いた結果として交換せられた量と、その時における価格との間の関係を需要の法則という形で捉え、この法則を分析することによって、価格理論を作り上げることに尽きる、と考えた。

ところがワルサスは、そのような交換の動機が原因はどこにあるのかを追跡し、そのような交換の原因は個人心理的な主観的効用にあると断定し、これから出発して商品の効用の極大の法則という法則を見出した。これは、複数の商品を消費する個々の消費者にとって、充足された最後の各満足の強度の比、すなわち希少性の比が交換価値の比、従って市場価格の比に等しいという個別経済的な一般均衡の法則である。これはとりもなおさず、限界効用均等の法則に他なりません。そしてこれを基礎として需要および供給の関係を導き、さらに商品所有者について収入と支出とは相等しく、また社会全体について言えば、それぞれの商品の総需要量と総供給量とは相等しいという条件をつけてみると、自ずからあらゆる商品の価格および需要量供給量の間に、社会経済的な一般均衡状態が規定せられうる。と問題を展開した。
 今まで説明してきた限界効用論とワルラスのとの違いは何でありましょうか。前者であるオーストリア学派は効用の測定の経験的可能性というものを前提としている。しかしこの立場には、果たして主観的な効用というものが測定することができるのかという問題が生じます。例えば、お寿司を食べたときに感じた主観的な美味しさを10として、ラーメンを5だとしたとしても、それは己の中だけの主観的な判断であり、それを客観的な数量や判断としてどうしてすることができるのでしょうか。一定量の財が特定の消費者に対して持つ主観的な効用というものは、元来一体としてのみ意味をもつ分量であるにすぎないのですから、これを相等しい単位量に分割することはできないのです。できたとしても、それは近代経験科学的に妥当たりえません。
 これに対し限界効用を用いるラルラスは如何に対応したのでしょう。彼は効用を、欲望の強度すなわち強度効用を測定できるものと仮定し、従って同種類の富の全ての単位のみならず、あらゆる種類の富のすえての単位について共通な尺度があるものと仮定してみて、その上で間接に効用の可能性を論証してみようとした。彼はこの仮説に立脚し、効用逓減の法則を導き、さらに財の所有量との関係から限界効用(稀少性)を決定し、それが価格に及ぼす影響を性格に数学的に説明してみるのです。そしてその結論として、需要量および供給量と価格との関係を確定する。そうすることにより、始めに仮説としての前提に過ぎなかった効用の可能性の上に立ちながら、これから演繹された経済理論が経験的事実としての価格関係に妥当することを論証した。すなわち彼は効用測定の可能性は間接的に証明されることとなると彼は考えたのです。
 そこで彼の具体的な経済理論の立て方は、まず効用測定の可能性を仮定する。そして財の存在量が増加するにしたがって、その付加的単位に負うところの効用は次第に減少するという関係を現すものとして、効用関数を構成する。そして効用関数と商品の存在量とが与えられると、各人が自己の欲望の極大満足を求めるという個人行為の一般原則の下に、おのずから商品の効用の極大の法則の結果として、一定の所得、一定の価格関係において、この消費者が消費するところの財の数量が、決定されるわけです。そこで次に、一定と仮定された価格が変化するものと考えると、それに応じて極大満足の状態が変動し、また需要の数量が変わってくる。そういうふうにして、価格の変化に応じて変化するところの需要量の関係が決まってくるのだから、この価格の関係と需要量の関係との相互関係から需要曲線というものが構成され、さらにこの需要曲線を基礎にして供給曲線を導くことができます。ところで通常、需要と供給とが等しかるべき価格は一つしかありえないという条件をつけると、それによって前に導き出された需要供給の両関数から、数学的に均衡価格が決定される。これが彼のいう理論的開放であり、これは理論に留まらず現実の市場の価格の騰落を通じて自然に解決されているものでもあり、「理論的解法と市場の解法とが一致する」と彼は言います。彼はこれによって効用の可能性は間接的に現実に妥当することが検証され、価格の原因としての限界効用は間接的に検証せられ、それが現実に妥当している限りにおいて、現実の交換条件の原因であろうと経験科学的に決定したのです。主観的な感覚を客観的に測定できる単位で表現してみて、その方から逆に人間の経験を整理してみる。その整理の結果が実は人間世界の事実を規定するというのはよくあることです。

 それに対しパレートは、個人の主観的効用を毛池炎的に直接に測定することが不可能であるということから、この様な効用の可測性という考え方を、経済学から駆逐してもなおかつ一般均衡理論の結論としてワルラス掲示したものを構成できるかというところからはじめて、選択の理論(theory of choice)というものを作り上げた。
 彼は経験的に客観的に確定することのできる無差別組織(一kのパンとブドウの組み合わせ云々を参照P150)と、同じく客観的に確定することのできる商品の初期存在量と、純粋に経験的に確定できる数量関係だけから出発し「商品の効用の極大の法則」−限界効用均等の法則の形式的な表現、すなわち限界効用度の比が価格の比に等しい、という均衡関係に到達し、交換の一般均衡理論の主要内容を演繹することに成功した。彼は完全に経験科学的にのみ振舞い、主観的な効用判断を経済学の外に駆逐してしまったのです。

オーストリア学派の経済学 : 体系的序説

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