とりとめのない戯言メモ 二次元(萌)美少女とベアトリーチェ・マリア 書いてみて一言「これはひどい」

 二次元の―漫画やアニメやゲームを主な活躍の場としている登場人物達と、文学や神話などを主な舞台としている彼女達の間に、どれほどの違いがあるというのだろうか。
 私は常々こう考えながら同時にこの考えを否定してきた。同じはずがないと。いや、実際私的体験においてはこの両者は全く違うものと経験されている。何が違うか、重さや深さが違う、得られる感動が違う。この様な幼稚な表現でしか説明できないが、それらは明らかに違うものだと、私は告げられている。
 しかし、ただこの様な私的な経験による価値判断だけで、この問題に対して終止符を打ってしまってもいいものだろうか。もしかしたら、この両者はある点において同質のものなのではないか。
 何が私にこの両者は同じだと言わせしめるのか、それは両者ともが、現実には実在していない存在であり、現実的ではなく理想的な存在という点において同質なものであると確認できるからだ。どちらの存在も素朴な実在の世界においては、指示される実体を持ち得ない。彼女達は我々の認識に依存しながらも、認識から逸脱している存在と考えられる。

 そしてまた、彼女達を愛するということはフェティシズム的ではないか、という私の妄想からも両者は同質ではないのかと考えるのだ。
 フェティシズムというとマルクスの物神崇拝を思い浮かべられ、商品それ自体に価値があるかのように思い込むことと理解されるが、私での場合は、彼女達を実際に愛の対象として思い込むこと・性愛の対象として思い込むことを恣意的に指すこととしたい。
 フェティッシュとは何であろうか、フロイトによれば「男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)のファルスに対する代理物(Ersatz)」とある。ここを読むだけでも、マリアやベアトリーチェ・萌えキャラ(二次元美少女)はフェティッシュの在り方そのものではないだろうか。

母親にはペニスがないことの衝撃。自分にはお父さんと同じようにペニスがないことの衝撃。この衝撃がフェティシズムに走る一つの大きな要素と考えられるならば、二次元性愛に走るのは自分がこうだと信じていた現実の喪失による衝撃からくるのだろうか・・・
フェティッシュとは主体性をもって動かぬ、実在性を持たぬ者を愛する、物を愛することとも捉えられる。つまり萌えを愛するとは死体を愛することとなんら変わりないのである。二次元を愛する者達は皆等しくネクロフィリアである。そして二次元美少女とマリア・ベアトリーチェを同質だとするならば、彼女達も等しく死体人形であると言わざるを得ない。この嫌悪感はなんだろうか、私自身に対して反吐が出る。
しかし、ダンテのベアトリーチェに対するものは崇高なものでありながらも、かつ醜い死体愛好でもあったのではないか。自らの理想と愛で描かれた動かぬ彼女を操り人形の如く動かしたと言えないこともないのではいか。
 二次元美少女達は世のオタクどもに理想的な女性像を信じこませながら、自分たちの様な理想的な存在がいないことを暗示しながらも、理想的女性がいるものとして偽る。しかし、この理想的な女性像の想定なくしては理想像は存在しえず、現実において理想的女性を発見するという成果も達成できないのではないか。
 とココまで来て、現実にある物質を愛するフェティッシュと、彼方にある理想的女性とでは、やはり区別があるべきではないかという考えに至っている。・・・しかしだ。萌えなどというものは、本人を好きなのではなくて、キャラが好きであり、属性が好きなことである。これをフェティッシュとは呼ばないのであろうか、やはりフェティッシュに対する考察が必要だ。
 とか大風呂敷を広げているが根拠が脆弱だし、フェティッシュに対する定義も曖昧すぎるのでダメダメだねー
aaaaaaaaaaaaaaaaおrz