萌えとはなんぞや その2〜「萌えの暴力―相手の人格を無視した属性化」〜ツイッターしながら考えた

前回、前々回と前置きがだらだら〜っと長かったので今回は早速本題に移ってみよ〜う!

今回の―ココでの萌えに関する最初の議題は「萌えの暴力―相手の人格を無視した属性化」とする。それは先にも示したとおり、この一文が私を再びブログ熱へと駆り立てたからだ。

前回の考察では萌えそれ自体に暴力性があるのかないのかという問題に言及しようという試みが見られたが、今回はその様な議論をして問題を煙に巻くことなく、萌えというものには暴力性があると仮定して、それはどんな暴力性なのかを考察していこうと思う。

まず、萌えとは見た通りこれは言葉である。それ故に既に萌えはその誕生当初から暴力性を備えている。それは認識の、ロゴスの暴力だ。ありのままにある自然状態を理解できる様に切り取る作業が、無形な状態で漂うものを無理やりに型に嵌める行為のどこが暴力的でないだろうか。
「二次元の美少女に対して抱くこの淡い感情はぁぁぁぁぁぁなんなんだあああ」と感じ、それを言語化しようと試みたその際に、既に暴力的な切り取りは起こっているともいえる。言葉は口に出した瞬間に死ぬというのも、こういうことなのかもしれない。しかし、これでは萌えについて語るのではなく言語について語っていることになってしまう。これは喜ばしくない事態だ。

言語は暴力性を宿すがしかし、それは認識への力だ。そして萌えなる語もまた何がしかの新しい認識を開拓し、さらにそれを規定したものである。wikiの萌えについての記述にも見受けられるが、萌えなる言・語はオタクらしさを味わえ、自他に対して自らがオタクであることを示すものとしても機能する。オタクになるにはまずなによりも萌えという語を感じ取り理解し己のものとし、そしてその感覚を受け入れ、萌え〜ということにあったのではないか。
つまり萌えなる言語はオタクへと導く作動なのではないか。現在というには既に少々時代遅れかも知れないが、オタクをオタク足らしめるものとは、この萌えなる認識を共有できていたからではないか。もしくはこの萌えという言葉の名の下に萌えを第一の価値とみなし騒いでいた不特定な人間達―時には有明秋葉原という具体的な場所を基点として(聖地化?)、あたかもオタクなる集団であるかのような幻想を味わっていた・浸ることが出来た、集うことが出来たのは、萌えなる価値による共感の誕生によるところが大きいのではないか。現代のオタクは萌えなる言・語の賜物ではないか。
萌えとはつまり、神の名・真言として機能する力を備えていたのではないだろうか。萌えが一つの記号というのなら、この萌えはキリスト今日における十字架である。つまり現代のオタクのイコンは萌えという言・語なのである。
そして、この萌えという言語が持つ力は不気味である。なぜならオタク以外の、萌えという価値を理解できない者達にとってはさぞ怪異に見えるだろう。現代のオタクが嫌われる要因の一つは萌えという分かりやすいシンボルを手に入れ、共感を仲間意識を一体感を持ちやすいものとなり、また他からも認識しやすくなった。しかし同時にこの萌えなる言・語は理解できない不気味なものであり、それ故に抽象的なオタクなるものに対する忌避も以前より明確なものとなっていったのではないか。
萌えという感情を共感し、この価値の下に集い、この萌えをシンボルとして活動が行われた物事人こそが現代のオタクであったのではないか

という説を思い浮かんだ。