シティズシップおよびシティズシップ教育に関して

シティズンシップについての考察


 この論文は今日のシティズンシップを明らかとすることを目的としている。それとともに、今日のシティズンシップ教育の意義とは何であるのかを考察する。
 はじめにブレア政権下でナショナル・カリキュラムとして実施されたイギリスのシティズンシップ教育と日本のいくつかのシティズンシップ教育について調べる。第2章では、シティズンシップ教育のより深い理解のためシティズンシップ概念や市民社会について調べる。第三章では今日のシティズンシップが抱える課題について調べ、第4章では新しいシティズンシップについて調べた。ここまでで既存のシティズンシップ概念は今日の社会状況に対応できなくなっており、多くの課題を抱えていることが明らかとなった。そしてそのことから今日のシティズンシップをめぐる議論では、既存のシティズンシップ概念を見直し、今日の社会状況に対応できる新しいシティズンシップ概念が要請され、それについて議論が展開されている。そして第五章では、新しいシティズンシップであるアクティブ・シティズンシップを構成する重大な要素である参加について調べた。
 本論を通して明らかとなったことは、シティズンシップは論争的な概念であり、これを定義するのは大変困難なことであると同時に問題を抱えることであった。今日の激しい社会変化の中でシティズンシップは常にその内容を問われ続かれなければならないと考える。
 ただ明らかとなったこともある。まずシティズンシップは構成員の地位身分であり、その帰属意識アイデンティティを指し示す。その構成員は市民的権利、政治的権利、社会的権利であると定義することはできるであろう。またシティズンシップはその権利とともに責任と義務がともなう概念でもある。
 以上のように定義されるシティズンシップ概念を論争的なものにしているのは伝統的には例えば権利と義務の内容やそのバランスをめぐる議論などである。しかし今日の新しいシティズンシップをめぐる議論において中心的役割を果たしているのが多様性の問題と国家の問題と参加の促進の三つである。そしてこの三つは分かちがたく結びついており、互いに別のものとして考えるものではなく関連して考えられるべきである。
 まず多様性をめぐる議論は移動の増大に領域内に多様性が増大した社会において、いかのこの多様性を包摂するかが問題となっていた。その方法として共通した政治的共同体への帰属意識や連帯感にそこへの参加の権利とともに生じる責任感から構成されるシティズンシップによる包摂が志向されていた。社会的統一の基礎にある主流の諸制度に参加させることによって、自由・民主主義体制が必要であるとみなす同じ共同体に属するという感覚と目的を共有するという感覚を、市民権という権利を付与することによって芽生えさせようとしていると考えられる。
しかしそれとともに共通の価値基板を秩序維持のために必要とするかどうかで対立があった。共通の文化や価値基板への帰属意識を批判する論者は、一つの文化への帰属意識はその他の文化を排除することになりえるとして危険視する。
これは国家とシティズンシップの問題に関わってくる。自由主義的なシティズンシップにおいて自由で民主的な国家は一つの民族一つの文化が市民に共有されていることによって成立する。しかし、この福祉国家においてマジョリティである文化とは異なる文化・価値観を持ったマイノリティは、その差異が故に排除される―社会の秩序を乱すものとみなされる。そしてこの文化の選択は―マジョリティに同化されるのを拒み、マイノリティであることを選んだこと、または自国文化を離れて自らがマイノリティになるのを選んだこと―自由主義の原則に則り、個人の自由な選択であるとみなされ尊重され、この排除は正当化される。
しかし、この個人の私的な選択とされる文化の選択は、文化的排除や抑圧を被ること以上に、政治的・社会的な排除に繋がる―排除を被る結果となる。それは政治的・社会的に包摂されるためにはひとつの文化を共有していること、主流文化に同化もしくは統合する必要があるからだ。以上のことから、一つの共有された文化を市民のアイデンティティとして必要とする、共通のアイデンティティ帰属意識を必要とする近代の国民国家と結びついた自由主義に基づく一元的なシティズンシップは批判される。
 国民とは民主的な討議以前の文化的ステータスであり、この事実によってマイノリティに関する課題は隠蔽されたり、マジョリティへの同化を強要されたりする効果もある。それ故に、シティズンシップを国民概念から引き離すことが要請されるのである。
 社会から排除されるのは今日では貧困はもちろんのこと文化的な差異によっても排除される。この文化的排除は、主流文化・文明から排除されるのみならず政治や社会からも排除されることに繋がる。それゆえにシティズンシップにおける多様性の包摂が今日の社会における課題とみなされるのである。
 この包摂を可能ならしめるものとして期待されるのが参加である。そしてこの参加をシティズンシップに導入したものがシティズンシップ教育の育成目標としても挙げられるアクティブ・シティズンシップである。
 多様性が増大する今日の社会においてT.H.マーシャルが労働者階級を包摂・統合したような社会権の付与という市民権の拡大だけでは、マイノリティを包摂し統合することは難しいと考えられる。また国民にだけ社会権を付与しても多様性の包摂と言った問題にはもはや対応できない。恐らく国民だけを包摂するシティズンシップは、今日の流動性や多様性が増大し複雑化している社会の秩序維持に対応できなくなってきている。
 そこでシティズンシップに期待されるのが参加による包摂である。この参加は地域のボランティアへの参加から直接的な政治行政過程への参加まであり、その内容をめぐって議論が展開されており、この参加もまた今日では論争的な概念であり、今日のシティズンシップがなにを志向しているのか分かりにくくしている一端であると考えられる。
 しかし主に自由民主主義国家と関連してシティズンシップにおける排除と多様性の包摂にかかわる参加に限って言えば、その参加とは政治共同体への参加、つまり政治参加のことを指す。市民の権利として政治へ参加することによって市民はその共同体への帰属意識を芽生えさせ連帯感を醸成し、市民としての責任と義務に自覚的になると期待される。もちろんこれは国家における政治共同体も含めるが、そこに限らず地域や国家連合における政治共同体への参加も含まれる。国民または市民という地位身分を超えて、シティズンシップは政治的実体などへの参加を志向することによって、より実体的な概念となるのである。これが新しいシティズンシップであり、アクティブなシティズンシップであるといえる。
 このように今日のシティズンシップは、今日の社会やシティズンシップが抱える問題克服のために―多様性の包摂やアイデンティティの獲得のため―自ら地域や政治共同体へ積極的に参加していくアクティブなシティズンシップが必要とされ期待されているのである。そしてこのようなアクティブなシティズンシップの育成を目指すのが今日注目されているシティズンシップ教育の意義であり目標であると考える。

イギリスの暴徒と社会的排除について

 イギリスでいまもなお続いている暴動と直接的な関連性があるだろう現代社会における排除とイギリスにおけるマイノリティについて少々触れ、今回の事件に関する理解が少しでも深まればと思いまとめてみます。

 近代社会の大きな問題として扱われていた貧困と格差だが、資本主義が発達した現代先進国において「物質的な」貧困はほぼ解消された―格差は未だにあるが、その差はだいぶ縮まったと認識されている。
 しかし一方で、こうした物質的な貧困に依拠した貧困概念では捉えられない、文化的な貧困―諸権利からの剥奪といった状態と排除過程が現象として確認され、これを現代社会の問題として取り上げる一つの論点として―権利からの剥奪状態・剥奪過程を指す言葉として「排除」という視点が用いられるようになった。
 この社会的排除においては、急速に発展していく社会変化に伴う知識社会の発達に対して、アクセスできるものとできないものとの格差が危惧され、その是正のための社会的包摂の必要性が論じられる。

英国では90年代後半(恐らく労働党のブレア政権)に入り、社会的排除に関する対策室が設置された。この機関は社会的排除の定義を「失業、スキルの欠如、低所得、質の悪い住宅条件、犯罪率の高さ、不健康、家族崩壊、といった相互に関連する複雑な問題を個人または地域が抱え苦しんでいる場合に起こりうるラベリング」としている。
 この定義には些か問題がある。それは社会的な排除はその状態ばかりではなく、社会的に排除されてしまう過程もまた重要な着眼点であり、状態にだけ視線を向けるのでは不十分であるとみなされるからだ。
 社会的排除の包摂においては平等ではなく一定の差別が必要であると多くの論者が口を揃える。それは文化や社会の主流もしくは富と教養を持つものと、排除されている・されつつある者たちとの間には深い溝が存在しており、両者を平等に扱ってもこの溝は埋まるどころかより広がってしまうという認識があるからだ。故に排除されている・されつつある者たちは誰であるのかを調査・特定し、その者たちに必要であると考えられるサービスを積極的に提供する―包摂する必要があるとする。その一方で、排除されてしまう仮定や背景要因を分析し、そうした社会的な排除が再発しないよう制度などの改革が求められる。
こうした包摂はなぜ必要であると考えられているのか。マーシャルの言葉を借りれば諸権利を付与することによって、「共通の財産たる文明への忠誠心に基づいた直接的な共同体帰属感」が権利から排除されていた市民たちに生じることを期待しているからだといえる。自由・民主主義体制への包摂と国家への統合は、資本主義体制における
発展と社会の安定をもたらすと考えられるからである。

 ここから素朴に今回のイギリスにおける暴動は、排除されている者たちの、イギリス社会への包摂または統合の失敗の顕れであると、みなすこともできるだろう。事実私は失敗であるとみなしている。今回暴動を主に起こしている人たちは移民とはいっても既に英国の市民権を得ている,もしくは移民の2世3世と言われている人々である。*1
 今回の暴動は職もなく、恐らく義務教育課程もまともに卒業していない教養のない野蛮とみなされる若者たちによる暴動であろう。彼らの暴動と、警官による黒人の射殺のあいだに強い関連性はないとしても。この事件が引き金となって、たまっていた不満が爆発してしまったのだとみなすことができるだろう。
 この不満と暴動は、社会的排除による結果である。イギリス社会への包摂または統合の失敗である。それは誰が悪かったのだろうか、イギリス社会に馴染もうとしなかった移民であろうか、移民や多文化に理解を示さなかった政府や英国人であろうか、それともまた何か別の要因が複雑に作用しているのだろうか。
 
 ロシア議会上院、連邦会議国際問題委員会、ミハイル・マルゲロフ委員長は「多文化共存と寛容の価値観は、ヨーロッパ人にとっても、移民達にとっても受け入れられないものだと指摘しており、移民達はヨーロッパ的価値観を認めず、尊重していない」と語っている*2

 これもまた一つの捉え方である。しかし社会的包摂を志す人々はこれとは反対のことを言うだろう。つまり移民政策・社会への包摂の失敗であり、政府の責任であると。
 しかしことはそう単純ではない。たしかに政府の落ち度は多数存在するだろうが、労働党のブレア政権は社会的排除問題対策室や教育における包摂などに取り組んでいた。私の分析やラディカル左派が批判するところによると、その政策も英国人よりのものであり、移民や多文化に対する配慮が足りなかったと言える。シティズンシップ教育においては、英国の労働者階級の子供たちの英国社会への包摂と異文化への理解と寛容を育てることが第一の目的であり。移民などに対する譲歩はほとんど見られなかった。更に異文化に対する精神的な寛容を育ててはいたが、実際の法制度などの進展はあまり見られなかった。
 こうした移民に対する包摂というよりも統合・同化を促しがちな政策は、移民たちに疎外感や拒否感を抱かせ、彼らを学校から追い出すことにもつながってしまったのではないか。彼らの文化の価値を認めない学校、認められない彼らは自ら学校という再生産装置から逃れていったと推察できる―こう考えると先のロシアのお偉いさんの言葉は、あまりに一方的なものと映るだろう。この推察は排除の総てを明らかにするわけではないが、異文化の排除過程の一つをあらわしているだろう。
 
 物質的な排除のみならず社会的排除のみならず、我々は文化的な排除と、アイデンティティについて考えなければならないとキムリッカは示唆している。

 今回の暴動は低賃金で働かされている不満や教養課程から排除・脱落してしまったが故の無教養、その無教養ゆえに適切な社会サービスを利用できなかったという排除、それを教えてくれる者たちの欠如―コミュニティ機能の衰退、こうした物質的および社会的な排除に加えて、イギリス社会において認められない不満といった文化的な排除など様々な要因がからみ合って噴出してしまったと、こうしたことが暴動の背景の一部にはあると私は考える。
 
 それでは移民たち・イギリス市民・イギリス政府はどうすればよかったのだろうか。これに対する適切な回答を私は持ちあわせてはイない。シティズンシップ教育は足りない部分もあるがイギリス市民へ異文化への理解と寛容を教えたり、地域コミュニティへの関心や参加を促していた―これは社会的・文化的排除への対応と評価することも十分できる。
 しかし残念ながらそれでは足りなかったのだろう。キムリッカが示唆したように、今日に耐えられる新しい市民権―多文化への理解と理性ある市民の徳を備え、「人々が、自分たちの差異を乗り越え、全市民の共通善について考えるための討議の場となるべき」―市民権がより醸成されれば、幾らかは希望を持つことができるのであろうか。それも一つの方法であろう。


もちろんこの問題には忘れられがちだが資本主義生産体制や交通の増大などが深く深く関わっていることだろう。




 

*1:確かなソースがないので不誠実な発言であるが許してもらいたい

*2:http://japanese.ruvr.ru/2011/08/10/54467012.html

「国民負担はあたりまえ」に対する批判

 Chikirin氏の「2011-05-15」を読んでいて、どうしても受け入れがたい記述があったので一言。


 端的にいってしまえば氏の「原発を利用しながら、豊富な電力を得て利便性の高い社会を作ろうとしていたのは、まさに日本の国民(有権者)の民主的な意思決定の結果だった」のであり「その意思決定に伴う損害を、今は福島県の人が一身に背負わされているのだから、その補償のために東電の資産で足りない分を国民全員で負担するのは当然だと思います。」という一説は、あまりに一方的な理解であり暴力的なのではないかという立場からの批判になります。

 原発政策に有権者は賛同し、その利益を享受してきたという部分は妥当だとしても、十分な対策がなされていなかったことによる責任まで有権者の責任に帰属させることができるのでしょうか。想定できる最悪な状況に対する対策をしない、という電力会社の決定の責任を有権者に部分的にでも帰属させることは可能でしょうか。今回の原発事故を巡る政治的な問題には、誰に責任を帰属させるのか、誰が被害者なのか一方的に決定できないという困難があります。その困難を、ちきりん氏は排除してしまっているのです。

 福島原発事故は人災であったか天災であったかで一時期揉めていたのは記憶に新しいでしょう。これは原発事故の責任が誰にあったのか、という戦略的なコミュニケーションを分かりやすく表しています。想定外な天災であったならば、政府や東京電力に責任は一切無く、犬に噛まれたと思って諦めろと言ってしまえます。しかし、これが想定可能であったにも関わらず、予防を怠った―もしくは危険性を知りながらも利益のためにリスクある選択をしたことによって発生した事態であるならば、問題はシンプルに片付けられなくなります。
 なぜならば、ある者たちは危険を省みず利益を求めて選択したのだから、その選択によって発生した損害の責任は、その決定者に帰属することになるからです。
 今回の福島原発事故は人災の面が強い、というのが今回の政治的な流れとみることができます。これによって、それでは誰が根本的な責任者なのかといった疑問が噴出してきます*1。しかし、それ以上に「どの決定が今回の事態を招く原因となったのか」という、(リスクある)決定を巡る問題こそが今日のコンフリクトな状況を招いている一因だと考えられます。

 今回批判の対象とするブログにおいては政府や東電の責任を認めながらも「国民(有権者)の民主的な意思決定」に、責任を帰属させようという政治的な戦略が見受けられます。
 つまり、利益を求めてリスクある選択をしたのは究極のところ有権者であり、その選択によって発生した損害保障を―東電が賄えない分は―国民が負担するのは当然だ、ということです。
 しかしこれはあまりに暴力的すぎというか大雑把すぎるのではないでしょうか。ちきりん氏は原発政策と福島原発(事業?)を同一視してしまっているのではないでしょうか。

 このブログが分り易いのは一番困難な「福島原発事故のを招いた決定の責任は誰にあるのか」という政治的な問題を一方的に切り捨てているからでしょう。彼の議論では、自己は天災だったから諦めて納得しろ、と言っていることは変わらなくなってしまいます。彼は原発政策に賛同したというかなり曖昧で大きな決定と、福島原発事故を招いた決定という限定的な決定を同一視しています。
 今回の事故が天災でないならば、今回の地震地震の多い我が国において想定できたものである。つまり十分な対策は可能であった、ということになる。しかし、その十分な対策が施されていなかった故に、ここまで大きな被害にまで発展することになってしまった、ということができるでしょう。
 事故の原因を対策の不備に帰属させるならば、責任は利益のため地震津波対策を怠った東電にあるといえることになります*2
 つまり福島原発事故の責任は、国の原発政策を支持した(放置していた)有権者にあるのではなく、対策をしっかりしていなかった東電に一方的にある、という展開も十分可能となってしまうのです。

 ちきりん氏が想定しているように、福島原発事故の責任を原発政策に賛成という政治的な選択に帰属させることも可能です。しかし一方で、福島原発事故の責任は十分な対策をしていなかった東電の決定に帰属させることもまた可能なのです。こうした責任の帰属をめぐる困難があり、社会が不安定になっているというのに「国民(有権者)の民主的な意思決定」にも責任がある等と言い切ってしまうのは、あまりに安易であり危険だといいたいのです。神の一声によって責任者を決め付けられれば、政治や法なんてほとんど必要なくなってしまいます。責任のなすりつけあいという多くの人々の利害が関係しているが故に汚く困難である問題を排除してしまえれなら、為すべきことが明らかになってくるのは当然かもしれませんね。


 今日のリスク問題において、誰が責任者であったのかは戦略的なコミュニケーションによって、かなりの程度変更可能です。そして人々が、リスクに満ちていた他者の行動の犠牲となりうるような状況を拒否しようとするのは大変合理的だと考えられます。人々が原発という選択にたいして責任を回避したいと考えるのは当然です。にも関わらず、国民にも責任はあったと一方的に議論を進めるのはあまりに暴力的であり、国民負担はあたりまえと言ってしまえるのでしょうか。
 原発が推進されていた時代に、発電力についてある程度の自由な選択が可能であったと見なすことが出来るのならば、国民に責任を追求することは可能でしょう。しかし原発は安価で安全であったと教えられてきたと反発されたらどうなるでしょうか、電力の自由化は可能であったと反発されたらどうなるでしょうか。人々は責任を回避し、政治的手段訴えかける権利は絶対的に保障されています。政治や科学や東電に対する信頼は低下し、社会不安は増大する一方です。
 このような事態にあって冷静になって目の前の問題に取り組んで安定を目指すのがいいのか。情熱を持って大きな構造的問題に取り組み改革を目指すのがいいのか、どちらが適切であるのでしょうか 

*1:政治なのか自民党民主党か官僚組織か東京電力か科学かなど

*2:東電が対策予算をケチッたのか別の会社なのか調べていませんすみません

教育とはなんだろう エッセイ

 教育とはなんだろう。今はそうでもないが一時期色々と騒がれていたし、今後社会が安定してもしなくても教育に関心が払われない事態が訪れるとは考えづらい。

 ネガティブな見方すれば教育(過程)とは価値や階層の再生産装置であったり、自由すぎて制御できない個人を制御しやすくする為に平凡なマシーン化を進める機関など言われたりもする。
 しかしこう言った批判は適切ではないだろう。なぜならば、教育課程・学校でなくとも社会化・階層の再生産・価値観の固定化は職場や地域コミュニティや家庭内でも十分見られる。国家による教育だからこそ国家に都合の良いと思われる社会化・マシーン化が為される、という事実もないわけではないだろうが、国家による社会化と家庭や地域コミュニティによる社会化に善悪の差などあるのだろうか。前者は恣意的な社会化であり自然ではないが、後者は人間にとって本質的だ、などと反論する方もいるだろうが、私にはどちらが自然で本質的なのか判断することはできそうにない。

 教育とは何か、この問いに対して余す所無く答えるのは無理だが、ネットなどの情報技術が発達したことによってその答えは変わってきているように私的には感じられる。

 今までの教育の主な役割とは、小学校から大学に到るまで一貫して知を与えること場であり、自らが蓄積した知を教授することであると思う。しかし今回の原発問題では、学校という場を通してではないが専門的な知が公開・発信された。直接的な教授ではないが、この知の公開によって、我々は何が起こっているのかを知り、自らで判断するための知を得ることができた。途方にくれず、選択するための知識を得る機会を提供してくれた。
 危機的な状況であるに関わらず、過度な情報公開はいたずらに不安と混乱を招くものだという定型句があるが、原発問題に関する様々な情報提供は逆に我々を自由にしたのではないか。私はそう感じる。

 これからの教育は、知の教授だけではなく、知を広く公開しあらゆる人が自由に知に接続できる場や機会を提供するという役割が増大していくのではないか。
 これからの学校は自らが構築し蓄積してきた知を独占し、それによって権威を得るのではなく。自らが蓄積した適切な情報を公開していくことによって、公的な役割を果たす機関となっていくべきではないか。


 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」ルーマン『社会の教育システム』

社会の教育システム

社会の教育システム

メモ 社会の教育システム

社会の教育システム


社会化は、持続的な不確かさの状態にある人生に向けて備えるものでなければならず、どのように行為するか検討のつかない人間というものについて行われる。57
 「社会化は振る舞いの自然的な、そして社会的な条件を自明のこととして伝達する。しかし別の人々が問題なしとしない例が経験されるにつれて、そうした伝達は社会システムに困難と紛糾をもたらす」62社会科は行為と模倣によって行われる一方教育はコミュニケーションに依存するゆえに社会的プロセスである。
 教育とは、教育する意図をシンボルとし、その限りにおいて意図なき教育である社会化は教育から排除されるべきものであることが鮮明となる。63,66,69も面白い
 シティズンシップ教育を導入するとして、その評価をどうするのか、どのように評価することを教育や教師に課すのか、その選別は―というのは重要な議題になるである。善き糸による教育であっても選別プロセスから逃れられず、決定であることを顕にする、負い目となる。そのこと、それ自体をシティ教育に再入させるのは教育として善いかもしれないのでは。
 教育と選別の区別を知るには、教育と社会化の区別が手がかりとなる。
「出自による社会的統合から、キャリヤ(未来)による社会的統合」個人と社会との統合(相互的制約)は選別の連鎖に道を譲った。83
 「教育は正しいが平凡化をもたらす。しかしそれはネガティブなことではなく、一定のインプットに対して一定のアウトプットをもたらす信頼できるマシーンなのだ。」92これは恐らく社会の正当な利益となる。むしろ、個人は平凡でないシステムであるが、社会とのコミュニケーション、教育の過程を経て平凡なシステムとして振舞うことが有利であるとしるのである。94
 「教育システムにおける社会化とは、いわゆる裏のカリキュラムについての主題である」95
「問題は、学校の授業を受けることが社会化に役立つという効果をもつとして、それは批判者が言うような現状肯定的・機能主義的効果に尽きるのか、ということである。」「平凡でないシステムが、時には平凡であるかのように振舞うことができ、しかも平凡なシステムになりきってしまわないことを、どのように学べるのか、ということであろう。」 「教育は他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる。」97

 「子ども(未完成の子供)が教育の媒質である【教育という機能は教育の中間物である子供に何らかの形式を備えさせることによって実現する。】」しかし、その子供は何でも制御できるものではなく、既に具体的な個人でもある。ただ「教育者は、この媒質の可能性、その子において未了にとどまっている実現の形式を選ぶ可能性に望みをつなぐ」117 個人は内部で不定性を生み出し、それを自分の未来の不確かさとして押し出す。そうした不定に形式を求める。
 この媒質は子供から経歴へと置き換えられた120 経歴という媒質は書き換え可能性、とりわけ矛盾を除去する可能性を与えてくれる。自ら生み出した不確かさは、外部の指示によって収拾されてはならない、その点で小説は自分自身を説明する見本なのである124 「色々な形式を求めていく媒質としての経歴」

「教育する意図は、余剰性及び可変性に向けられているのである」128―知識は反復利用の可能性、すなわち余剰性と、変化と新機軸と意外性をもたらす。
 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」129

教育は生き方を管理することなど要求できない、それは全体主義的な教育になってしまう。


「他人は何を合理的だと思うのか検討がつかない状況におかれている人々の扱い方についての構図を示せないほど―極端に複雑化した社会」199これは合理性の欠如などではない。―「合理性の問題に取り組むのではなく、社会全体の解明を目指したためにあまりにも一般的になってしまった基準を最特殊化する可能性はないかと問うてみるのがよい。合理性についての判断は、基準を最特殊化する仕組みに属するか否かの判断だということになる。そうした仕組みは組織とプロフェッションである。」

教育のシンボルである今後の経歴に役立つことを教えるというのはあまりに一般的すぎて、中身がない。この空白を満たすのが、理念と実践の区別である。「組織による理念的制御という(空想的な)観念があり、他方で、システムの特別の機能とその社会的重要性を表現するものである諸価値を尊重せよという一種の制度的なプロフェッション化による義務付けがある」

 全社会的な合理性を見出そうとして一般的なありふれたものになって、どうしようもなくなる。そうではなく機能分化した社会においてはシステムの合理性を求めるのが適当であり。合理性の最特殊化をする仕組みとして組織とプロフェッションがあげられる。
 学校が国家のアンシュタルトという形を取ることを背景として教育者はどのように強制を自由へと変換するのか―アンシュタルトとは一般的な国家権力の枠を超えて利用メンバーを自己の規律に服させる特別権力の施設である。
 プロフェッションが、病気を健康へ、無教養を教養へと媒介する役目を果たす。205
プロフェッションによってクライアントの人格は変化する、専門化にはその差異化する権能が与えられている。(過言だとはおもうが、シティズンシップ教育によって、市民であることが学校教育の教師の判断に委ねられるかもしれない)
ルーマンが言うには教育ほど成功するか失敗するか不確かなものもないが、「教育がそれでもやっていけているのは、成功を自分の手柄にし、失敗をクライエントの特殊性のせいにするからである」という。しかし昨今の教育を巡る批判などを見ると、教育それ自体の失敗への言及も増えているのではないか。モンペなどもそういった一種なのではと思ったりもしている。

プロフェッションによる、または組織による最特殊化の問題にまで到達すると、善き意図とか、救いようのない出来上がっていない若者たちとかいった一般的なシンボルによる表現は、崩れ去ってしまう223

(今日でも、悪を特定するのは難しくないが、何が善であるかを特定するのは困難になっている。だから今日では、共通善よりも共通悪がコミュニケーションの主題となりやすいのだろう)
(教育は社会的に見れば選別過程なのだけれど、教育自身はその選別を拒否する。その齟齬は経済が低迷し就活が激化することによって、以前より先鋭化というか見え易くなっている。必ずしも社会経済のための道具として教育があるのではない、職業教育も階層による統制の拒否によって価値を失っていった)
「教育への支出は、政治的成果のシンボルとなる。258」(保守党を乗り越えた成果としてのシティズンシップ教育!!)
「極端な個人主義の一定の修正を目指す―「客観精神」が独自の歴史として個人に対置され、」261(個人化による不安定性に憂慮した結果としてのシティズンシップ教育)
 「状況が変われば同じ振る舞いが通用しないのに、振る舞いの規則集として道徳を学習させ得る」なんて考えているのだろうか。264 確実性の喪失への対応
 カリキュラムが変わるたび、何が教育の本質なのか薄れていき遂には啓発の解体へとなっていった267
「ある者にとっての解放は、ある者にとっての不安である」「主体との関連だけを取り上げることをやめて社会的次元をも願慮するならば、直ちに、自由を求める市民的プログラムの長短両面が顕在化する。」「自由を認めるとは、事由の用い方の固定を断念するということだから〜どのように用いられるかを他人は知りえないとういことである。」269
 「教育学も不安を伴わずして解放は達成されないということを告白せざるをえないであろう」「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」270

 

 シティズンシップ教育の観察は、そのプログラミン、開放的か安定志向かの観察をメインにするのではないだろう。英国シティズンシップ教育の内情と、その日本における受容や解釈、また用いられ方を明らかにするのは無益ではなくとも、根本的な問いにはならない。そういった比較を通して明らかになった差異いじょうに、不確かさに対抗するための〜教育という認識のほうが有益かもしれない。

エコロジー論を読んだりしてのシティズンシップ教育の雑多なメモ

不安への対処法として理性的な人間を目指す啓蒙という目的をもつものがシティズンシップ教育といえるかもしれない。
その際の不安とはプログラムの部分であり、たとえば移民の増大や治安の悪化、政治への不参加、コミュニティ機能の低下といった様々な不安に対処できることを期待されていると考えられる。では、そのコードは何か。シティズンシップ教育もまた教育であるゆえに選別というバイナリコードを適用されるだろう。そらに道徳の尊敬/軽蔑というコードもまた顔を覗かせるのではないかと考えられる。教育と道徳のコードによってシティズンシップ教育は子供たちを良き市民であるか/ないか、という選別をおこなうことが可能となってしまう。これは道徳というコードによって観察されてしまう弊害である。その弊害を取り除くのは容易ではないだろう。シティズンシップ教育は政治経済社会といった異なるシステムからの要請に晒され期待されており、教育という点においてどうしても選別を行わないわけにはいかない。つまりシティズンシップ教育は市民的であるか/ないかとった包摂と排除を最初からふくんでいる。それは是非もないことであろう、しかしだからといってこの観点を無視することもまた許されるとは考えがたい。こうした選別が行われることによって、どんな利益や弊害が発生するかは、また別に問われなければならない問題だとしても、ここで論じようとしている内容ではない。またシティズンシップ教育で良い成績を上がられなかったからと言って社会から排除されるのではないか、などとこれから言うつもりもない。
 教育の目的と機能が人間の改革であり、社会や政治によって要請された人間を形成する必要に迫られることは当然のことである―勿論教育は教育の理想に基づくことも可能である。この差異はシティズンシップ教育の在り方にも出ている。たとえば品川と御茶ノ水では云々、このように学習されるべき内容が異なることから選別という目的を達成できるとは考えがたい。

 シティズンシップ教育は、市民意識を醸成させることを目的とするが、さらなる目的として社会を改善するよりよい民主主義といったことを目指していると考えられる。しかしルーマンが私的する通り意識と社会には隔たりがあり、この意識と社会の差異はコミュニケーションのテーマとなる。62

十分に市民的である/十分に市民的ではない、という選別はエリート主義貴族主義といった結果を招くかもしれない、または過去の教養主義に近いものとなるかもしれない。ただ、コードの時点では基準をもうけることはできない。たとえば非真理が真理よりも科学的な発展をもたらしたり、所有しないほうが所有しているときより収益をもたらすかもしれない78。 コードと適切な作動のための基準との差異は、同じシステム内での閉鎖性と開放性を結合する。コードとプログラムの分化は排除された第三項のシステムへの再導入を可能にする。
 コード化の次元と、適切な作動の条件を定め、場合によっては変更が行われる次元との区別が必要である。そしてプログラムとは、いかなる作動が選択することが適切であるかを定める、前もって与えられた条件である。87要求の具体化であり可変的でありつづけなければならない。コードとプログラムの分化によって、環境によりひこ起こされた危機に社会がどのように共鳴しうるのかという問題の鍵を担う。
 一つのシステムが強権的になろうとも、他のシステムとの依存関係にあるかぎり暴走は失敗しやすくなっているのだろう。95つまりそのために、共鳴は制約される。また共鳴は既に構造化されており

政治は常に学術や教育に期待していると言えるだろう。このような期待はどのようにして発生しているのかを確認することは決して無益とならないだろう
 政治的な選択が、社会全体に対して効果があったのかが分かるには相応の時間が必要だと思う。たとえば「ゆとり教育」なんかは本当に効果があったのかどうか分からない内に不況による経済の低迷は「ゆとりのせい」みたいなトンデモ論が出てきて、すぐに消えてなくなってしまった。専門システムへの信頼が低下し不安が増大すると、時間の猶予を市民が認めなくなってしまう。そうすると効果が出るかでないか分からないうちに政策などがコロコロとかわり支障をきたすように成るかもしれない。
 シティズンシップ教育はもちろん問題の解決を求められているのだろうが、同時に問題の増殖・発見をもたらす。市民性は恐らく解決された市民的な問題から新しい市民的な問題を追求するだろう。それに対して政治や経済は反応せざるをえないだろう。

 チャールズテイラーは近代によって自由になった個人の存在の不安さを、共同体や全体に繋がることで本物になることで克服しようと試みた。こうした共同体志向、コミュニティや地域への志向また、パーソンズの価値規範への志向はシティズンシップ教育の目的にも見出すことが出来る。
 さらに先ほど示した中道左派的なシティズンシップ教育や保守的な市民性教育どちらにあっても、こうした志向を見て取ることが出来、シティズンシップ教育にその期待をかけている。

個人化を嘆くものがいるが、恐らくこの個人化は止められない保守や共和主義者が求める理想はたとえ叶えられたとしても醜く歪な形態をとるのではないか。もはや拠り所は常に変更可能であり、自分自身を自分自身で支えることを悲劇的にも強制される世界に我々は生きているのだから
 大きな物語の喪失などで語れる学術的世界観を社会や経済が受け入れるかといったら、その補償や根拠みたいなものはどこにもない。今回の原発における学術的真理が解明されたとしても、それを人々が受け入れるとは限らないし、それを愚かだと言ったところでたいした意味はない。
 今現在社会が置かれている問題にたいして政治が期待されているうちの僅かなことしかできないからこそ、政権交代が頻繁に行われているのではないか。政治が社会の中心であり政治が様々な問題を解決するという昔ながらの思想が行き詰まっている証左ではないか*1

あまりに短絡的に行ってしまえば、社会の連帯や統合の維持のために特定の秩序ある認知体系を共有させることを目的とした教育―または分化システムにおける特定の価値体系が制度化され個人に内面化され社会システムにおける均衡のため―ともとれるのだが、教育一般にこの手の発言は当てはまるだろう。

システム理論と教育学

 主体性とシステム合理性、人が主体的に行為しているなんて日常ではほとんどありえないんじゃないか。システムのコードに引っ張られているというか、それによってどちらかを選ぶことを既に強制されている、つまり能動的に選択しているかもしれないが主体的とは言いがたいのでは。教育は個人の特性の発揮・育成という教育自身の目的いがいに、社会においては社会の様々なシステムに関わることへの準備という機能が期待される。ルーマンの教育における認識で注目しておきたいのが近代の教育の特徴とそれ以外との差別化であるとういか、社会化と教育を対比的に把握している。部分的な一部システムへの包摂ではなく、個人は
流動化しており階層的秩序は前近代に比べ破綻しており、教育はこうした社会に不確定である―依存している。全てのシステムは全体社会と部分システムと自分自身とに関わっている―機能・作用・反省
 教育はリベラル・エデュケーションと職業教育の間を揺れ動く。しかし教育システムの機能は未来への社会システムのための適切な環境であると同時に、個人の社会化である。30
bildung人間形成という人間主義的伝統は教育学の逃げ道となっている。
 
福祉国家の限界
福祉国家内において政治は多くの欲求をたとえ実現が難しくとも引受ざるを得ない、そしてそれらの要求を実現するために何かを実行することを政治は官僚機構に任せなければならない、そして官僚はその実現のためという正当性をもって財源を自由に処理できる―実現できるかできないかに関わらずに.
市民による無茶な要求を実現しようと政治が官僚に働きかけることによって、官僚制は予算の獲得と官僚制の拡大を叶えることができてしまう。ここで市民を愚かだというのは簡単だし、官僚にたよるのま間違いだというのも簡単だ、適切ではない

システムにおいて何が可能で、可能でないかを認識する 

社会の教育システム

 全社会的な合理性を見出そうとして一般的なありふれたものになって、どうしようもなくなる。そうではなく機能分化した社会においてはシステムの合理性を求めるのが適当であり。合理性の最特殊化をする仕組みとして組織とプロフェッションがあげられる。
 学校が国家のアンシュタルトという形を取ることを背景として教育者はどのように強制を自由へと変換するのか―アンシュタルトとは一般的な国家権力の枠を超えて利用メンバーを自己の規律に服させる特別権力の施設である。
 プロフェッションが、病気を健康へ、無教養を教養へと媒介する役目を果たす。205
プロフェッションによってクライアントの人格は変化する、専門化にはその差異化する権能が与えられている。(過言だとはおもうが、シティズンシップ教育によって、市民であることが学校教育の教師の判断に委ねられるかもしれない)
ルーマンが言うには教育ほど成功するか失敗するか不確かなものもないが、「教育がそれでもやっていけているのは、成功を自分の手柄にし、失敗をクライエントの特殊性のせいにするからである」という。しかし昨今の教育を巡る批判などを見ると、教育それ自体の失敗への言及も増えているのではないか。モンペなどもそういった一種なのではと思ったりもしている。

プロフェッションによる、または組織による最特殊化の問題にまで到達すると、善き意図とか、救いようのない出来上がっていない若者たちとかいった一般的なシンボルによる表現は、崩れ去ってしまう223

(今日でも、悪を特定するのは難しくないが、何が善であるかを特定するのは困難になっている。だから今日では、共通善よりも共通悪がコミュニケーションの主題となりやすいのだろう)
(教育は社会的に見れば選別過程なのだけれど、教育自身はその選別を拒否する。その齟齬は経済が低迷し就活が激化することによって、以前より先鋭化というか見え易くなっている。必ずしも社会経済のための道具として教育があるのではない、職業教育も階層による統制の拒否によって価値を失っていった)
「教育への支出は、政治的成果のシンボルとなる。258」(保守党を乗り越えた成果としてのシティズンシップ教育!!)
「極端な個人主義の一定の修正を目指す―「客観精神」が独自の歴史として個人に対置され、」261(個人化による不安定性に憂慮した結果としてのシティズンシップ教育)
 「状況が変われば同じ振る舞いが通用しないのに、振る舞いの規則集として道徳を学習させ得る」なんて考えているのだろうか。264 確実性の喪失への対応
 カリキュラムが変わるたび、何が教育の本質なのか薄れていき遂には啓発の解体へとなっていった267
「ある者にとっての解放は、ある者にとっての不安である」「主体との関連だけを取り上げることをやめて社会的次元をも願慮するならば、直ちに、自由を求める市民的プログラムの長短両面が顕在化する。」「自由を認めるとは、事由の用い方の固定を断念するということだから〜どのように用いられるかを他人は知りえないとういことである。」269
 「教育学も不安を伴わずして解放は達成されないということを告白せざるをえないであろう」「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」270

 社会化は、持続的な不確かさの状態にある人生に向けて備えるものでなければならず、どのように行為するか検討のつかない人間というものについて行われる。57
 「社会化は振る舞いの自然的な、そして社会的な条件を自明のこととして伝達する。しかし別の人々が問題なしとしない例が経験されるにつれて、そうした伝達は社会システムに困難と紛糾をもたらす」62社会科は行為と模倣によって行われる一方教育はコミュニケーションに依存するゆえに社会的プロセスである。
 教育とは、教育する意図をシンボルとし、その限りにおいて意図なき教育である社会化は教育から排除されるべきものであることが鮮明となる。63,66,69も面白い
 シティズンシップ教育を導入するとして、その評価をどうするのか、どのように評価することを教育や教師に課すのか、その選別は―というのは重要な議題になるである。善き糸による教育であっても選別プロセスから逃れられず、決定であることを顕にする、負い目となる。そのこと、それ自体をシティ教育に再入させるのは教育として善いかもしれないのでは。
 教育と選別の区別を知るには、教育と社会化の区別が手がかりとなる。
「出自による社会的統合から、キャリヤ(未来)による社会的統合」個人と社会との統合(相互的制約)は選別の連鎖に道を譲った。83
 「教育は正しいが平凡化をもたらす。しかしそれはネガティブなことではなく、一定のインプットに対して一定のアウトプットをもたらす信頼できるマシーンなのだ。」92これは恐らく社会の正当な利益となる。むしろ、個人は平凡でないシステムであるが、社会とのコミュニケーション、教育の過程を経て平凡なシステムとして振舞うことが有利であるとしるのである。94
 「教育システムにおける社会化とは、いわゆる裏のカリキュラムについての主題である」95
「問題は、学校の授業を受けることが社会化に役立つという効果をもつとして、それは批判者が言うような現状肯定的・機能主義的効果に尽きるのか、ということである。」「平凡でないシステムが、時には平凡であるかのように振舞うことができ、しかも平凡なシステムになりきってしまわないことを、どのように学べるのか、ということであろう。」 「教育は他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる。」97

「教育する意図は、余剰性及び可変性に向けられているのである」128―知識は反復利用の可能性、すなわち余剰性と、変化と新機軸と意外性をもたらす。
 「知識はかれらに、何が起きようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえて馴染ものない土地に進出できるための装備をあたえてくれる。教養(啓発の成果)を顕示できる知識と解していいなら、教育は、会話文化に参加して途方に暮れずにすむための道を拓くものである」129

教育は生き方を管理することなど要求できない、それは全体主義的な教育になってしまう。

 シティズンシップ教育の観察は、そのプログラミン、開放的か安定志向かの観察をメインにするのではないだろう。英国シティズンシップ教育の内情と、その日本における受容や解釈、また用いられ方を明らかにするのは無益ではなくとも、根本的な問いにはならない。そういった比較を通して明らかになった差異いじょうに、不確かさに対抗するための〜教育という認識のほうが有益かもしれない。

*1:学術をよんで

民主主義と市民性に関してのメモ―議会制民主主義の形骸化などを中心に

 議会制民主主義は今日でこそ一般的であるが、そもそも議会制と民主主義は同一なものではないし親和性も普遍的なものではない。議会制は近代以前においても存在していた、ただその議会は等族議会と呼ばれ、貴族・市民(ブルジョワ)・僧侶といった身分を代表するもの達の集団であり国王の諮問機関的なものであった。これが市民革命などを経て―国民代表の原理と多数決の原理の採用によって今日のような議会制民主主義が誕生した。それ以前の議会は貴族主義的であり、利害の担い手が今日よりも多様でなかったために同質性を確保しやすかったと言われている。しかし、それが国民全体となることによって政治の担い手は市民から大衆へと変わり、数のみならず質が変化し同質性は失われ社会における利害対決は激化、もはや国民的利益と呼べるものは見いだせなくなり、議会もまた統合機能や代表機能が低下し形骸化していった、といわれる。
 では貴族性に戻せばいい、などという方もいるだろう。言い過ぎであるがそれに近いのが保守派であると私も妄想している。それに対抗するものとして大衆の啓蒙や大衆の市民化を求める者たちもおり、かのトクヴィル*1やミルも民主主義における数の暴力を危惧し中等教育までの義務化などを説いていた。大衆は啓蒙される必要があると、彼らは認識していたのだろう―それはなんのためにであろうか、それはひとまずおいておこう。
 大衆と市民の区別は政治・社会・教育を語る上で無視することはできないだろう。たとえば、大衆社会における民主主義における問題点として、トクヴィル民主化が進むと人は他人と同じ思想・行動・生活様式をとり画一化の中で生きる。そこで権威は貴族主義による理性ではなく、大衆による匿名の世論となる。民主化した社会ではこの匿名の世論という権威にしがみつき支配される、多数の専制に陥る。これに対し彼は自由主義を民主主義に導入し自由と平等の両立を主張し、少数の権利の侵害の危険性を緩和しようとした。

 市民は教養と財産をも理性的な人々とされるが、大衆は多様な利害をもち非合理的で情緒的な特徴を持つ。ただこの分類が正しく妥当ものと考えるかどうかは別であるが、市民という発想には主知主義的すぎる向きがあるだろう。主知主義批判といえばリップマンである。人間は合理的判断に基づき―自分の利害や目的を明確に認識し、その実現のため合理的な判断を下す、もちろん選挙においても相応し代表を選出するという発想を批判し、理性的・合理的ではなく人は衝動的で本能的あるとした。彼は非合理的な人間を前提とした民主主義メカニズムを示しステレオタイプという概念を提出した。

 話は脱線してしまうが、このような主知主義はいまなお根強く、また大衆の一部と化した教養ある市民を大衆と区別したがる選民思想的な者もいるだろう。これはまあ極端な話だが、民主主義実現のために大衆は教化され理性的にならなければならないという発想は自由主義共和主義ともに見受けられる―それが今日におけるシティズンシップや市民社会に期待する流れの大本になっているのではないだろうか。
 
 大衆化社会にともなう多様性の増大によって、それらを処理する知識・技術への需要が増大し行政への依存度が増大し行政国家化し、議会の地位や機能は低下していった。そして行政国家化とともに政党の寡頭制化・官僚制化し民衆と政党の距離が遠くなり、民意吸収という機能も形骸化し議会は空洞化するようになる。*2
このような議会の形骸化・空洞化は今日の政治課題である。こういった課題に対して、その責任の一旦を市民・民衆へと求めるのがシティズンシップへの関心の増大であるとも、残念ながら考えられる。もちろんこれだけが要因ではないのだが、政治に対する関心の低下*3、地域コミュニティとの繋がりの希薄化、また「若者はおとなになれない」などといった関心が決して小さくはない部分を占めているのは事実であろう。従来の民主主義化観として、自律した個人が責任を持ち選挙で票を投じた結果、選出された議員が理性的に討議し国民的利益の具体化にとりくみ合意を形成する、という理念がある。こうした議会制の原理をになっていたのは教養ある市民であり、理性に基づき人間は行動するという主知主義であった。
 実際、近代の市民≒ブルジョワが理性的であったかは疑問であるが別として、市民は理性的であるというのが理念として根幹にある。こうした理念によって現代の議会制民主主義も成り立っていることを忘れてはならない。
こういった議会の形骸化を招いた、大衆社会についてリップマンが提出したステレオタイプによって、つまりあまりに多様で複雑になってしまったため人々は情報を処理するためにステレオタイプに頼らざるを得ず、それによって事実としての環境は覆い隠されイメージ・固定観念によってズレが発生してしまうことを明らかにした。ここから、大衆は市民より扱う情報量があまりに多すぎ利害関係も複雑であるため理性的に振舞うことが不可能に近くなっている社会状況見ることができるだろう。残念ながらそれが民主的・平等社会を志向した一つの結果である―しかし大衆が理性的に振る舞えない結果が大衆にあると見なすのは大きな間違いであろう、それは交通と多様性の増大によるの大きいだろう。また大衆社会をコーンハウザーはエリートへの接近可能性は高いが同時に非エリートの操縦可能性も高い社会と定義した。
 
 民主主義において人民による統治は不可能であると説いたのはシュペンターである。かれは公益は一枚岩でなく、人民の合意に基づく決定を下すのは無理であるとし、人民は有能なリーダーやエリートを選出することができるだけであり、選挙により候補書が支持獲得を目指し競争に晒されるプロセスこそが民衆史であるとした。つまり民主主義とは競争原理を取り入れ政治的決定を下しそれを合理的に正当化するための装置・手続きに他ならないとした。
 ここで民主化にともなう行政国家化によるエリート(選良)の出現について触れていこう。エリートと官僚は道義ではないが、社会の大衆化にともなう福祉国家化により行政組織が拡大すると、効率化のため官僚組織がうまれ、組織内の少数幹部による情報・技能優位に基づき支配は強まる。さらに寡頭制的支配者に対する大衆の依存が強まり、少数のエリート≒官僚が多数を支配するようになる*4。パレートは社会主義が実現しても少数のエリートによる支配はなくならず、ミヘルスは民主主義政党であっても少数支配の傾向は免れないと結論した。そしてミルズが指摘したような、一枚岩のように結束した一致する利害を持つパワー・エリートによる支配などがアメリカなどで見られるようになっていった。
 ミルズはこのように社会は特定の固定化した支配階級によって支配されていると指摘した。一方のリースマンやダールは、そこまで固定的ではなく、政策決定に影響力を持つ人々によって異なってくると多元的権力論の立場を示した。

 以上のような議会制民主主義の形骸化と、一部による支配に伴い参加民主主義というのが60年代以降主張されてきた。これは人民による政治への直接参加を希求する思想や運動であり、間接民主制を補完するものとして注目されている。その具体例として、情報公開の促進、国民投票住民投票オンブズマン制度や
。またそれ以外にも議会制の形骸化に対して党首討論の導入や政府委員会の廃止、副大臣性の導入などによって、国会の活性化や官僚の影響力の低下を目的とし1999年に国会改革関連法が日本で成立した。
 
 こうった制度的な動きと並んで、大衆の市民化を目的としているのがシティズンシップ教育と撮られることもできるだろう。さきほども述べたが、理性的な人間の合理的な判断によって選出する、という民主主義の理念を信じその実現を、ある種の主知主義教養主義的に求めているという背景があると考えられる。ルーマンもまた政治的・文化的な成熟に期待しており、その成熟を教育によって成そうという意志がシティズンシップ教育を推進する(自由主義)者にはあるだろう。保守主義や共和主義においては、多様化してしまい不安定になっている世論において同質性を確保しようとシティズンシップ教育に期待するものもある。両者ともにシティズンシップ教育によって同質性の獲得を求めていると見なすことができる。ただ自由主義者はその美徳とする中庸や寛容の獲得による同質性を、保守主義はマナーやしつけや日本人らしさ等による同質性を獲得するための、ひとつの手段としてシティズンシップ教育に期待し利用しようとしていると考えられる。シティズンシップ教育には主知主義教養主義志向シティズンシップ教育と、伝統・コミュニティ志向シティズンシップ教育と自由主義志向シティズンシップ教育などといった分類が可能であるかもしれない。
 クリック(204,157)は「真面目な関心ごとは、リベラル・デモクラシーか公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)、そのどちらかのやり方で解決されねばならない」と揶揄している。
 そして今日のシティズンシップ教育にはトクヴィルカーネギーがミルが期待した教育―公共図書館の設置―に近いものがある。実際英国におけるシティズンシップ教育諮問委員会座長であるヒーターは『デモクラシー』において「私はデモクラシーの推進力としてのシティズンシップ教育を考えている」(161)と述べている。果たしてデモクラシーのためのシティズンシップ教育は可能であろうか。英国で実施されたそれはクリック自身により公民的共和主義のラディカルな実行宣言と揶揄した。


 
 余談だが、市民としての義務の従来の意味は、その法に従うということであるが、今日においては権利と自由を尊重する積極的な市民の役割という義務が付け加えられようとしている180。その義務を果たすために知識・技術・機会を与えられてしかるべきとする向きがある。もちろん、政府が望んでいるのは品行方正で善良な市民であり、また積極的シティズンシップである。

 

*1:彼は民主化を諸条件の平等化と定義し、多くの利益に沿った政治という利点を指摘、今までネガティブであった民主主義にポジティブなイメージを与えさらに自由主義と民主主義を積極的に結びつけた

*2:まっ民主党さんはそれを回復しようとして失敗した感じですね。私の意見として議員の権威と権力の回復による議会機能の復活という手段では現状を打破できない程に行政国家化が進んでいるのでしょう。一番の悪かった点は、自分たちは選挙で選出された代表であることを盾にあらゆることを正当化し強行に打って出ようとした点がうまく働かなかったのだろう。全体主義にいかないでよかったー

*3:政治的無関心に対しハンチントンは民主的政治制度の効果的作用のためには、ある程度の無関心が必要であると述べた

*4:ミヘルスの寡頭制の鉄則